Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「岡倉天心の芸術思想」のまとめ①
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)は二部構成になっていて、第一部「美学と美術史」と第二部「芸術論の展開」があります。その間にインターメッツォ(間奏曲)が挟んであり、會津八一の美学について論じられている章がありました。まず第一部「美学と美術史」は岡倉天心と森鴎外の美学を扱っていて、5つの単元に分かれていました。今回は「1 岡倉天心の芸術思想」についてまとめますが、内容が大きく芸術思想の根幹を成すため、前後半に分けてまとめることにしました。まず明治時代の美術界について触れた箇所を引用いたします。「幕末の動乱から明治初期にかけては、天心のいうように『破壊的な傾向』を帯びた時期であり、とくに当初、神道立国を目指した新政府の方針により『廃仏毀釈』の風潮が起こり、伝統的美術品は軽視され、大きな損害をこうむったのだった。」それに比べて文明開化の象徴と言われた油絵は大いに流行したようです。「さて明治初期洋風画の先覚者であった川上冬崖や高橋由一が、最初に西洋画に惹かれたのは、『逼真』つまり日本美術の伝統にはなかった迫真的な技術であった。日本において西洋画はまず美術、あるいは芸術としてよりも、水彩や油彩を用い、遠近法や明暗法を駆使して自然そっくりに写し取る科学技術として受容されたのであった。」そんな風潮に対しフェノロサが、そもそも美術とは何かを提唱しています。「すなわち美術を美術たらしめるのは、この『妙想』であり、美術と非美術を区別する基準は、作画に際しての『妙想』のあるなしに掛かっているのである。フェノロサは工部美術学校の洋風美術教育に基づく写実主義は、美術と科学を混同した『理学ノ一派』にすぎないのだと非難している。」ここでいう妙想とは何でしょうか。フェノロサは全体の有機的統一のことを言っているようです。そのままの文章を引用いたします。「各分子互ニ内面ノ関係ヲ保チ、終始相依テ常ニ完全唯一ノ感覚ヲ生ズルモノ之ヲ美術ノ妙想ト謂フ」岡倉天心やフェノロサが提唱している事柄は、現在では美術の通常の考え方になっていますが、通常の考え方になるまでの行程がいろいろあったようで、これは後半部分にも登場してきます。