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「『緑色の太陽』から」のまとめ
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)は、今日から「第二部 芸術論の展開」に入ります。その最初の単元である「1『緑色の太陽』から」をまとめます。明治43年の雑誌「スバル」に、詩人で彫刻家である高村光太郎は「緑色の太陽」と題する一文を寄せていて、その内容の革新性を中心にした論考が展開されています。「光太郎の『緑色の太陽』の主張は、それまでの明治の洋画檀のリアリズム表現から一転して、芸術家自身の個性の表現に絶対の価値を求める、新しい世代の芸術運動の先駆けと見なすことができよう。」ヨーロッパから印象派や印象派以後の動向が伝えられて、それを日本の画壇がどう受け止めていたのか、本書では細かな状況が書かれていました。「光太郎が『緑色の太陽』を書いた時点では、まだ『後期印象派』どころか『後印象派』という言葉も存在していない。さらに言えば、『表現主義』という観念はもっと遅れて成立してきたものである。にもかかわらず、光太郎の『緑色の太陽』は、すでにこれらの観念を先取りしているように見受けられる。この光太郎の芸術家らしい直観的把握の大胆さに比べると、柳(宗悦)の『後印象派』の解釈は、セザンヌについても『内面の気息の表象』という、『白樺』の同人たちに共通する文学的な人道主義的解釈とそれほど隔たるものではない。ここに光太郎の『緑色の太陽』が、日本美術の近代を画する論考と見なされる所以があるように思われる。」やがてフランスから帰朝した黒田清輝の絵画は外光派と呼ばれ、次のような解説をしています。「一見して分かる新派と旧派の違いは、色使いの明るさと暗さにある。その違いはそもそもどこから来るのかといえば、旧派が『ものの形を書くと云ふ丈け』であったのに対して、新派は『ものの感じ方を書く』ようになったからであり、『これが時勢と云ふものでしょう』と、黒田は語っている。」その他さまざまな時流の中で、日本も右往左往しながら近代西洋絵画の咀嚼に努めていました。「高村光太郎の『緑色の太陽』はもはや『印象派宣言』とか、『後期印象派宣言』、あるいは『ポスト印象派宣言』といった言い方で簡単に総括することは出来ない。『緑色の太陽』は、それこそ国際的にモダン・アートの文脈が形成されつつあった微妙な時期に登場し、『芸術』という普遍的な視野でその近代性を主張した画期的な評論であったと言わねばならない。またこの評論はそこから遡って、日本における印象派とは何であったかを、改めて問い直し、検証するための重要な指標の役割を果たすものだとも言えるであろう。」今回はここまでにします。