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「抹殺されたスキャンダル」のまとめ
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第1章 抹殺されたスキャンダル」についてまとめます。本書は西洋絵画において近代から現代へ価値観が変わっていく時代をピンポイントで取り上げ、詳細な論考を練り上げています。「マネとくればスキャンダルという一般常識の観念連合の最初に位置付けられてきた作品といえば、1863年《草上の昼食》。そして、1863年といえば、フランス近代美術史に通じた読者なら先刻ご承知の、かの歴史に残る『落選者展』の年、と来るのが普通だろう。この年のサロンー当時の画家にとって唯一公式な作品発表の機会ーには、五千点を越える出品応募があったが、審査は峻厳を極め、入選したのは(一説には)わずか2783点。落選した画家たちの非難を懐柔すべく皇帝ナポレオン三世の肝入りで『落選者展』が開催され、これを出発点に画家たちはこの先、国家権力から自由と独立とを求めてゆくことになる…これが、ごく最近まで美術史の概説書に見られた常識的な記述である。~略~はたしてマネの『落選者展』におけるスキャンダルという神話には、その裏返しとなるもうひとつの逸話が隠されている。問題となるのは、マネよりも一世代年上で、《オルナンにおけるある埋葬の歴史画》(1849-50)、《画家のアトリエ》(1855)を初めとする作品で度々スキャンダルを招いていた写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)だ。~略~《法話の帰り道》なるこの作品、1863年のサロンに落選したのみならず、『落選者展』をめぐるスキャンダルからもいわば『落選』した、という不思議な経歴をもつ、まことに稀有な作品だからである。~略~そこに描かれているのは、真っ昼間から天下の公道で泥酔して醜態を晒している、卑俗にして滑稽なる田舎の坊様たちの姿であった。~略~1863年の『落選者展』でかたや『落選者展』からの落選という不思議な事態を招いていたクールベと、それとは反対に、当時はさして醜聞ではなかったはずの作品がやがて歴史的なスキャンダルに祭りあげられもしたマネ。このふたりが1860年代のフランス絵画史で演じた虚々実々の鍔ぜり合いは、とりわけ裸体画をめぐる醜聞に集約されるだろう。ふたりを比較することは両者の特質を浮き彫りにするだけではなく、両者を隔てる歴史の亀裂をも露呈させつつ、そもそも当時における裸体画という理念に対してふたりの挑発ぶりがいかなる動揺を齎したのかを測定するうえでも有効な作業となる。」今回はここまでにします。