Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「巨像と奴隷」について
「彫刻の歴史」(A・ゴームリー M・ゲイフォード共著 東京書籍)は彫刻家と美術評論家の対話を通して、彫刻の歴史について語っている書籍です。全体で18の項目があり、今日は11番目の「巨像と奴隷」について、留意した台詞を取り上げます。台詞の中で東大寺の大仏殿の話題が出てきました。「これは矛盾しているんだけど、仏教は物理的に巨大な物体に愛着を持つその一方で、無常、つまり儚さこそが唯一不変のものである、とも唱えているんだ。仏教の教義の中心にあるのは、欲望を捨て去らない限り僕らは物理的な世界に束縛されたままで、無常という真理には辿り着けないというものだ。だからこういうイメージは、自我が幻想であるという悟りを僕らに促すためのものだ。つまり意識はまさにその具体化から解放されるためにこそ、物質的な具体化の状態を克服しなければならない、ということだね。」(A・ゴームリー)「だから一連の巨大な仏像は、とてつもなく大きな体躯を有しているのですね。その狙いは、像を見る者が自分自身を物理的な存在からすっかり脱却させるのを、手助けすることにあった。」(M・ゲイフォード)「彫刻、とりわけ人物像は古代イラクや古代エジプトのころから政治的な目的のために使われてきた。でもそういう巨大像が風化して、朽ち果てているときのほうが好きだな。僕にとっては理想化された王位ー神王ーから分離されていくものへの変容が、それをより豊かなものにしている。もともとの政教一致的な煽動家の目的は、エントロピーと虚無に焦点を当てることに置き換えられる。つまり仏教でいう『空』だ。」(A・ゴームリー)「眠っている身体、あるいは苦しんでいる身体という観念は、涅槃物とはかけ離れたもので、ミケランジェロの《瀕死の奴隷》《瀕死のガリア人》のような古典的な彫刻にまでさかのぼる。そしてロダンの《青銅時代》と同様の内に秘めた感覚を持っているんだ。20世紀の美術のなかで最初にそれをやったのは、ヴィルヘルム・レームブルックだね。兵士の死であれ、あるいは誰の死であれ、それを記憶に残す方法として、死を英雄視することを絶対的に拒否して、絶望を受忍することに置き換えた。《くずおれる男》という作品は、頭を地面につけた這いつくばる姿勢、つまり僕らが生命の始まりを連想せざるをえないような身体への回帰に力強さがある。」(A・ゴームリー)「なるほど、圧倒され、うちひしがれているとはいっても、彼は依然としてある種の巨人ですね。けれどレームブルックの像はやはり弱さにかかわるもので、強さにではありません。~略~そしてレームブルックの像と同じことはミケランジェロの《奴隷たち》にもあてはまります。ミケランジェロがいつも『囚われの者たち』と呼んでいた作品です。彼らは敗者であって、勝利者ではありません。」(M・ゲイフォード)今回はここまでにします。