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「反響と回顧の視線」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第2章 死亡記事の闘い」の「1 反響と回顧の視線」についてまとめます。1883年にマネは50歳で亡くなりますが、逝去当時はマネに対し、どんな位置づけがされていたのでしょうか。現在では「草上の昼食」や「オリンピア」が美術史の教科書に掲載される扱いになっていますが、当時の風潮ではそれらの絵画の革新性に価値は見出されてはおらず、サロンの落選展では論争の的として注目されてきたのでした。当時の新聞にもこのような批評が載っていたようです。「この、かなり奇抜なタブローは、ちょっとした騒ぎを起こした。ほとんどの人にしてみれば、それは嘲笑の的であった。この画家は、ぜひとも公衆の注意を惹くことによって日の目を見ようとしているとして非難された。それでも、より偏見の少ない審査員はこの作品の中に、まだどちらに伸びるのか定かではないが、まことの才能の萌芽を認めた。」(「指針」「覚醒」「ラ・マルセイエーズ」など)時代の変遷とともに芸術の価値観も変わっていくもので、私たちが美術史で学習し、現代アートとして認識している作品も、発表当時は批判されるか無視される状況にあったと考えられます。当時の評論家が批判している文章を読んでいると、旧態依然とした考え方に啞然とするのですが、自分もその時代に生きていたら、果たしてどうだったでしょうか。その中でも一歩先を見据えた評論家の文章にホッとするのは私だけではないはずです。「美術学校の一切の伝統と縁を切ったマネは、新しい手法を使って個性を発揮した。マネは慣習による単調さに対抗して、自らの憧れと誇りを頑として犠牲にしようとはしない。かの独立派に共通する運命を蒙った。彼は笞打ちの刑に服したのだ。しかし彼は気落ちすることはなかった。奴は強者だったのだ。情熱に満ちたアルキビアーデス〔ソクラテスの反抗的な弟子として知られる〕として、彼は笑う者を笑い返し、大御所が発した服務規律遵守命令に対して、陽気で風変わりな理論を使って反抗した。」(アンリ・フラマン)今回はここまでにします。