Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「物語絵画の終焉と絵画の自律」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第4章 大藝術の終焉」の「3 物語絵画の終焉と絵画の自律」についてまとめます。歴史家テオドール・デュレについて書かれた箇所を引用いたします。「第二帝政下の共和派の闘士から脱却してーというよりむしろそれを抑圧してー第三共和制下でコミューンと第三共和制初期の政治過程を『公正かつ冷徹に』見つめる歴史家へと変身したデュレは、この政治がらみの文学(=物語)の軛から藝術を藝術の名において解放する闘争の一環として、マネ擁護の論陣を張っていた。藝術の非政治化もまた、第三共和制下における歴史家デュレにとっては、(それが政治であることを否認するかぎりでの)政治目標のひとつだった。そして自らの政治性を否認する『科学的』な拠り所こそ、かれの標榜するーそしてこの時代を席巻するー実証主義歴史学であった。」それでもまだ時代は混迷を極めた複雑な状況にあり、こんな一幕もありました。「ここにいわゆる『ブルジョワ藝術』の逆説があらわれる。というのも、売れなくても構わぬマネや売りたくても売れない印象派の絵が、そのぞんざいで気まぐれな放縦さにおいて、かえって規則に囚われない貴族主義やお目こぼしに預かるエリート主義の嗜好に追従する上昇志向の『ブルジョワ的』な傾向を呈するのにたいし、堅実な資本家ブルジョアの方は、逆に念入りな仕上げのある、いかにも叩き上げの職人藝めいた良心的な制作ぶりに信頼を寄せることになるからだ。資本家たちがアカデミーの実直な画風の顧客となるのも道理であるが、まさにそうした趣味が唾棄すべき『ブルジョア藝術』としてマネやその仲間から揶揄されもする。」そんな旧態依然としたブルジョア嗜好から脱するためにエミール・ゾラはこんな文章を書いています。「ここにあるのはもはや絶対の美の追求ではない。藝術家は歴史=物語を描くのでも魂を描くのでもない。構図と呼ばれているものはマネにとっては存在せず、マネがみずからに課する色斑もけっしてあれやこれやの思想とか歴史的行為とかを表象するものではない。(中略)これは何度繰り返して言っても繰り返しすぎることはないだろうが、マネの才能を理解し賞味するには幾千ものことを忘れなければならない。それゆえにこそマネを道徳家とか文学者として判断してはならない。マネは画家として判断されねばならない。」今回はここまでにします。