Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「修正主義論争」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第4章 大藝術の終焉」の「4 修正主義論争」についてまとめます。「19世紀絵画における『仕上げ』について総括的な議論を展開したアルバート・ボイムは、マネや印象派といったいわゆる独立派の画家たちの達成が、じつはアカデミーにおけるスケッチをちゃっかり着服して完成作にいわば流用したものにすぎないとする仮説を提出して、おおきな影響力を及ぼした研究者である。」つまり印象派は脈々と続いてきた伝統的な描法を踏襲しているのだろうと察する研究者が出てきてもおかしくはなく、藝術表現の価値転換を図るのは容易ではないことが伺えます。「マネのサロン展示作などが、60年代は無論、70年代に入っても、依然として『これではタブローとはいえない、断片にすぎない』、『依然として正しい綴り方を知らない』、といったフランス流の範疇論をもって批判されていた例は枚挙に暇なく、これはマネ没後の追悼記事にいたるまで基本的に変らない。」次の引用文に登場するポンピエについて説明します。ポンピエとは消防夫のことで彼らを動員しなければ展示が出来ないほど巨大で、神話の兜を被った英雄ばかりが登場する壮厳な絵画を揶揄した表現です。「ただポンピエ流の『仕上げ』の上塗りの完璧さを、絵画作品の次元のみならず、歴史像の修正のうえでもあくまで貫徹しようとする姿勢には、論理的操作のうえでの短絡、というにとどまらない、ある積極的な癒着ぶりが露呈している。なぜなら手段にすぎなかったはずの仕上げによる下地の糊塗が、ここでは絵画と歴史像のふたつの次元に跨がって、そもに自己目的化を遂げているからだ。このように、マネの評価にも係わる『未完成』と『素朴さ』をめぐる議論は、今日にいたるまで最終的な決着を見ないまま継続されている。本件についての先駆的な論文の題名をもじるなら、『仕上げ』についての物語はー幸にも、というべきだろうかーまだ仕上がってはいないといえようか。」今回はここまでにします。