Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「藍狂い症候群」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第5章 黄昏あるいは黎明」の「2 藍狂い症候群」についてまとめます。「仕上げをめぐる論争と並行して、マネ晩年の評価をめぐるいまひとつの争点となったのが、『藍狂い』とユイスマンス(ジョリス=カルル・ユイスマンス)が呼んだ、異様な原色表現だった。~略~マネの『青』を意図的な主管と指弾することによって、『自然への忠実さ、画家の気質を通して見られた自然の一隅』といった自然主義の教条を論破してみせたマンツらに対抗するかのように、ユイスマンスが1880年に主張したのが、擬似生理的・医学的な印象派眼病説であった。意志的な探求の努力が昂じて発生する偏執狂ゆえ、ある画家はすべてを青く、ある画家はすべてを紫に見たのだ、この色盲症状はサルペトリエール病院のシャルコー博士の実験で知られる、ヒステリー患者の色彩感覚が変性するという症例を裏書するものだ、とユイスマンスは主張してみせる。」藝術論争は思わぬ方向へ進展していったようで、印象派が抱える問題の大きさが伺えます。「さらにマネの没年にはすでに、印象主義の賦彩法の欠陥を『科学的』に乗り越えようとするジョルジュ・スーラ(1859-1891)のいわゆる『点描主義』の試みも現れていた。一方では、色彩同時対比の原理に立脚し、対象の発する輻射光線をプリズム上の原色のスペクトルムへと分光し、そうして得られた原色光の物質的等価物たる純色の色彩を、その強度を損なわぬように、混ぜ合わすことなく画面上に併置する。他方ではそうした純色の並列が、距離をとって鑑賞すれば網膜上において視覚的に混合されて再構成が成立するものと見なされる。~略~遅まきながら『新印象主義』の名を授けるのは、ようやく1886年、スーラの畢生の大作、《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》が公開される年の事である。」今回はここまでにします。