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「日本という美学」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第5章 黄昏あるいは黎明」の「3 日本という美学」についてまとめます。1883年4月中旬にパリの画廊で「日本美術大回顧展」が開催されました。「当時左足切断手術後のマネは、もはや展覧会を見物できる状態にはなく、この手紙から1週間とせずして死を迎えることとなる。マネの画業のひとつの発想源である日本美術について、ようやく体系的な知識が知られようとしていたちょうどその頃には、マネはすでにその生涯を終えようとしていた。ここでもマネは、自分の試みを正当化してくれる根拠がひろく公認されるのを待つことなく姿を消すというダンディーぶりを発揮したわけだ。」印象派の画家が日本美術、とりわけ木版画(浮世絵)に影響され、脈々と続く西洋画の伝統から解放されたのは美術史上では大きな出来事だったようです。「マネと日本美学とに共鳴の見られるのはもはや明らかだが、ゾラ本人もまたそうした親和性に無関心ではなかった。その証拠に、同じ1878年パリ万国博覧会に際して執筆した文章で、ゾラはデュレの『印象派の画家たち』からながながと抜き書きして、『日本人の真新しく大胆な制作方法』に感化されて外光表現に原色の併置を導入したのが印象派であるとするデュレの見解を追認したうえで、そこに『アカデミーの慣習化されたややこしい制作方法』から脱却するための出口を認めようとしていた。~略~日本の木版画はこれからの歴史家たちに、たまたまかれらが必要としていた解答を与えるものだったわけだ。そうした学説の蓄積は今日、オルセー美術館学藝部長(当時)、現ギュスターヴ・モロー美術館長のジュヌヴィエーヴ・ラカンブルをはじめとする『日本趣味研究』の専門家によって追認・補強され、1988年にパリと東京で開催された『ジャポニスム』展に至る解釈の系譜を形作るに至る。~略~素朴な実証主義がえてして見逃すことだが、『日本趣味』と判断されうる技法や傾向と、『日本の影響』として学問的手続きによって実証される範囲とはー時間軸のうえでも作品の広がりのうえでもー必ずしも一致しない。いやむしろ原理として両者は別種の操作に属するものだ。文献学的な操作によって『日本の影響』を特定できる以前の作品に、すでに(事後からみれば)『日本趣味』という用語ないし概念によって特徴付けられる兆候がいくらでも出現する。」今回はここまでにします。