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「アンデパンダン展の成立 」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第6章 美術行政と美術制度の刷新」の「1 アンデパンダン展の成立 」についてまとめます。「アンデパンダン展の成立。それはまた官展から締め出され、世間の無理解に晒された『前衛』画家たちが勝利を収めるまでの苦闘の歴史=物語と不可分に語られてきた。そのなかで記憶されたもうひとつの象徴的な年号が1874年、いわゆる印象派の第一回展覧会開催であった。実際『藝術家、画家、彫刻家、版画家共同出資会社』を名乗ったこの団体の展覧会は、79、80年の二度、『独立藝術家展』、『独立画家展』と銘打っている。この『独立』とは、その一員であるエドガー・ドガが日ごろ主張していた標語だが、その彼自身は『印象派』なる『党派』とは美学的にも明確に一線を画している。いずれにせよ画家たちは、国家管理の官展からの独立を求めていた。」それではアンデパンダン展の内情を記した箇所を引用いたします。「1884年の旗揚げ段階でアンデパンダン展の側はどのような状態だったのか。ともすれば『前衛の拠点』などと呼ばれるこのアンデパンダン展ではあるが、その実態は無鑑査の公募展にほかならないから、もとより統一的な美学的プログラムなどを持った団体ではありえないことに、まず注意しておきたい。実際その旗揚げの段階では、運営に関しても大混乱が生じていた。何ら会則も定めぬままで出発したところに402人に上る画家たちから728点の作品が一週間で搬入される。~略~つまりその船出の段階でのアンデパンダン展の内状はといえば、とても一致団結して官展という『敵』を打破するどころではなかったのである。」当時、パリではアメリカに渡る「自由の女神」が制作されていたようです。「《自由の女神》ーそれ自体空虚なるこの鉄骨の巨像は、大西洋を渡ってニューヨーク港入り口のリバティー島に据えられるや、アメリカ合衆国の自由の象徴へと変貌した。それにも似て、アンデパンダン展もまた、その出発点における内実の危うさにもかかわらず、審査も褒賞もない運営による民主的な器としての藝術の『独立』と『自由』を象徴し、新しい絵画の発展を支える揺籃としての意義を担ってゆく。1886年から定期的に出品した『税関吏』アンリ・ルソー(1844-1910)をはじめとする画家たちの共感を呼ぶことで、アンデパンダン展はやがて『近代美術史』という物語において、神話的と言って語弊のない役割を果たすこととなるだろう。」今回はここまでにします。