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「オルセー美術館へ」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第6章 美術行政と美術制度の刷新」の「4 オルセー美術館へ」についてまとめます。私が渡欧した1980年にはオルセー美術館はまだありませんでした。巨大なオルセー駅の廃墟が放置されていて、工事用囲いの隙間から建設中らしい何かが見えていました。マネの絵画は印象派美術館に展示してあって、私はそこで初めて本物のマネの絵画を見たのでした。「マネの列神式とそれによって発生した文化状況を、先にも触れたフランスの社会学者ピエール・ブルデューの提唱に従って『象徴的な次元における革命』と名付けることも可能だろう。だが、むしろここで問題となっているのは『象徴革命』是か非か、という問い以前に、件の『象徴革命』なるものを『歴史的事実』として認知する陣営に立つか、それともそうした認識そのものが歴史認識上の『誤謬』であるとして、断固これを否認するかの分別に直に拘わる判断そのものの是非となるのではあるまいか。~略~1884年の『象徴革命』とそれに引き続く『眼の教育』は、この時代を記録すべくそれから百年を経て開設に漕ぎ着けたオルセー美術館という公共文化施設の根幹をなす運営方針の是非を問う根拠、ではなくてその根拠そのものに関する判断基準を左右しかねない視覚範疇ーつまり政治的舞台で可能な選択肢(前衛か否か、それとも折衷か、など)をあらかじめ枠づける舞台設定の限界そのもののーを舞台裏から人知れず規定する、いわば不可視の『規則』として、問題に決着をつける可能性それ自体を前以って回避させながら、それだけいっそう目立たずしかし執拗に機能しつづけ、『藝術の首都』パリの『栄光』をいや増しに高める”犯罪的”作業に密かに貢献し、また入館者をいやおうなくその『共犯者』として貢献させるように仕向けている。」つまりオルセー美術館とはそういう歴史を踏まえた美術館なのだと著者は言っているようです。次回は本書の読後感に入りますが、込み入った文章が時として意味全体の把握を難しくしているように私には思えました。漸く読み終えてホッとしています。