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「生いたち」について
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「生いたち」についてまとめます。鴨居玲は3人兄弟で兄と姉がいました。兄の明は第二次大戦で学徒出陣し、戦死と認定され、22年の生涯を閉じています。姉は下着デザイナーやエッセイストとして知られた羊子でした。「玲も自由に生きた。姉羊子とは、一枚のコインの裏と表だと言われるくらいに、似た性格があり、共に人生観の芯に自由人志向がある。こういう姉弟の自由人志向は、彼らが誇りとする父悠の感化が大きい。父悠は、酒豪で、美術家との付き合いが広く、歌を詠み、悠々居と号し、リベラリストをもって任じていた。文才に秀で、栄達を望まず遁世的で、芝居の脚本などを書いて楽しむ気風である。」父の悠は新聞社に勤めていた関係で転勤が多く、朝鮮半島にも渡っています。「玲と姉羊子とは、京城師範学校附属尋常小学校に転入し、時に玲は二年生、羊子は五年生である。~略~まだ低学年の玲は、肉のおかずが出ると嫌いで泣き出すような頑是無さが残っている。偏食のせいか、がりがりに痩せていて、目ばかり大きくぎょろついていた。神経質で孤独癖が強く、自分の内側は容易に打ち明けない。~略~絵は、兄の明ほど巧くなくても、心底好んだ。玲の絵は、自由で、滅茶苦茶で、きたならしくて、後年絵描きになるとは到底思えなかったと羊子は回想している。でも当時既に、絵しか生きる世界を見出せなかった玲であったようだ。」やがて中学時代に話が進みます。「羊子は移転の時、京城の公立女学校三年生である。大阪に移ると、豊中高等女学校に転入した。玲は京城師範附属小学校六年を終えていて、大阪で私立中学に進学する。すなわち関西学院中等部である。小学校時代の成績が芳しくなく、私立中学しか行けなかったと言われる。」それから金沢に移り、玲は金沢中学に転入しました。「中学最高学年の金中五年生だった鴨居玲も、この『愛知派遣石川学徒隊』の一員のはずで、20年7月1日か2日かに帰郷した組に入っていたろう。玲と同年齢の者は、疾病者でない限り、軍関係の学校か工場労働かのいずれかを選択し、軍の方は選ばなかった玲だから、工場に動員されたとみるしかないのだ。~略~空襲に、玲ら愛知派遣学徒は何度も遭い、幸い同級生に死者は出なかったが、5月14日の被爆では、名古屋城の天守閣が炎上、金の鯱鉾一対のうち、疎開してなかった雄鯱が焼失した。玲は丁度その被災地に居て、燃える天守閣のみならず路上に倒れた死傷者を大勢目の当たりにし、その死傷者を運ぶ作業に従った。」今回はここまでにします。