Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事「土を愛でる…」について
今日の朝日新聞の「折々のことば」で取り上げられていた記事に目が留まりました。「土を愛でるように、指を添える 土に対して、ほんの少しだけ、手を貸すというつくりかたです。(辻村史朗)『ざらざらの、のびない土/ねばねばで、すぐにへたる土/火に弱すぎる土/火に強すぎる土』。これを欠点とするのは土を制したいと思う人のほうで、それらはむしろ土の個性だと、奈良の山奥に住む陶芸作家はいう。技術などないほうがいいと。人育ても同じ。まずはその懐に『どぼんと』飛び込むこと?作品集『辻村史朗』から。」(鷲田清一著)陶芸家辻村史朗氏の作品は、技巧の見えない自然そのものの風合いがあって、その面白さが秀逸なのだと私は感じています。技巧が見えないと言っても技巧はきちんとあって、むしろ器を自然らしく見せられる陶の扱いが素晴らしいと思います。陶芸は、土との関わりに作家なりの工夫があり、土を生かす方法を素材との間合いをとることで、独自に編み出しているのだろうと思います。亡父が植木の手入れをしている時に、気になって常に手入れをしちゃいけない、暫し放っておいて葉が混むまでボンヤリ待つんだと言っていた事を思い出しました。庭の手入れに入った得意先で、そこの主人が植木のことを気にしすぎていたのを、それとなく注意したことを私が覚えていたのでした。誌面では人の育て方も同じと書いています。私が校長職にあった時も、周囲の教職員との間合いを考えていました。言い過ぎず、言わな過ぎず、その人に応じた寄り添い方を見つけ出そうとしていました。うまくいくかどうかは分からなかったのですが、現職の時は自分なりに考えていました。現在、私が作っている陶彫はどうでしょうか。陶芸ほど微妙な関わりはありませんが、やはり素材が土なので、それなりに丁寧に扱っているつもりです。ただ、ほんの少しだけ手を貸す細心な作り方はしていません。そこが西洋の彫刻としての考え方なのかもしれません。造形としての理屈が先行し、楚々とした造作がないとも言え、彫刻的構築性を主張するのみです。それは詩情というより哲学的な存在なのでしょうか。