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「金沢美術工芸専門学校」について
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「金沢美術工芸専門学校」についてまとめます。まず石川県金沢という都市の特徴について書かれた箇所がありました。「8月6日に広島に原子爆弾が投じられ、これが降伏への決定的契機で、8月15日の終戦詔書放送となる。金沢は、こうして遂に、被爆せず、焼けてない都市として残った。古い工芸美術の地方有力都市金沢が無傷で残ったことは、不幸中の幸いであり、また、焼けた都市の再建復興と事情がまったく別で、そこに金沢の特殊性がある。つまり、焼けた都市と違い、実に素早く文化行動を取ることが出来たのである。」そんな世相を反映して美術学校設立が持ち上がりました。「校名は当初、『金沢美術専門学校』であったが、既に東京美術学校、京都絵画専門学校があり、それらと性格を異にしていることと、工芸に特色のある金沢の土地柄を反映させるべく、『工芸』の二文字を入れ、正式名称は、『金沢美術工芸専門学校』に落ち着いた。また、校舎は兼六園に隣接する金沢師団兵器庫の内部を改造して用い、外壁が赤煉瓦の建物、その敷地は一万六千坪である。」鴨居玲はこの学校に入学することになったのでした。「鴨居玲が画家を志望して金沢美専を受けるのを、父は反対せず、理解があったと伝えられるが、実際、その通りなのである。悠は、玲の画家志望を知ると、玲のために図る。早ければ昭和20年12月、遅くとも翌21年の2、3月、ともかく美専設立の動きが次第に具体化していく頃と思われる。悠は、金ボタン姿の玲を連れ、彦三町の宮本三郎の許を訪れて、倅を弟子にして欲しいと辞を低くして頼み、宮本三郎は承知する。~略~後年の玲の告白では、正規の本格的石膏デッサンをまじめに勉強したことがない由で、美術学生が教室で学ぶいわゆるアカデミックなデッサンは好まなかったとみられる。従って受験期もそういう訓練はしなかったのではないか。その代わり玲は自分の好む対象を繰り返し自分流にデッサンし、自分のデッサンを創る方だった。そういう才は宮本三郎も認めていたふしもあり、或いは宮本三郎はアカデミックな石膏デッサンなど余り意味が無いとでも言い、そんな玲のデッサンを推奨したのかも知れない。」鴨居玲が画家として第一歩を踏み出したことも書かれていました。「昭和23年は、しかし、玲にとって画家への道の始まりだった。宮本三郎が東京へ去った五月、金沢市公会堂で第四回石川県現代美術展が行われ、美専三年生の玲は、これに『観音像』を出品、県知事賞を受ける。公募展初出品、初入選、初受賞であった。」今回はここまでにします。