Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ジャポニズムⅡ」と「アントニオ・ガウディ」について
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)の2つの単元をまとめます。ひとつは「エミール・ガレの象徴主義」と題された単元で、ジャポニズムの後半部分になります。もうひとつは「奔放な風土との調和」と題されたアントニオ・ガウディに関する論考です。まず象徴主義に関する文章を引用します。「象徴主義が芸術家たちの間で隆盛した一因には、近代の物質文明に対する彼らの嫌悪感がある。近代産業が科学と連携して次々に作りだす新奇な製品(デパートに陳列される商品に始まって街路のガス灯、電話、鉄道に至るまで)に多くの都会人は、生活の豊饒化を感じ、理性の万能、人間の全能すら思って、この物質文明の所産を享楽していたのだが、象徴主義の推進者たちは、そのような目に見えるもの、形あるものに対する近代人の素朴な信仰に精神性の欠如を覚え、その奥へ、目に見える世界の内奥へ、降りてゆこうとした。」そこに日本趣味が入ってきました。「1900年に、ガレは《日本の夜》と題する傑作を制作している。ガラス器の透明感と輝きに訴えかけて彼が表現しようとしているのは、彼自身のメランコリーでもなければ生命の衰退でもない。まったく逆の、自然界の生命の華やぎである。夜の闇も蛾も大方の西洋人から不吉とみなされているのだが、ガレは、そのような人間の自己中心的な価値判断を排して、自然の息吹それ自体へ帰ろうとしている。《日本の夜》という命名からは、日本人の感性の道筋を辿ろうとするガレの意欲、日本趣味を異国趣味より深い次元へ導いてゆこうとする彼の意欲が伝わってくる。」次に建築家ガウディに関しての記述です。「《サクラダ・ファミリア》全体の起源は何なのか。カイロ近郊の”鳩舎塔”なのだろうか。たしかに形状はよく似ているが、私はむしろ、ガウディがこよなく愛したカタルーニャの岩山の群れモンセラートの山々を考えている。平原の真中で唐突にそそりたつこの巨大な奇岩の群れ、上昇への生命力を異様に帯びたこの自然の巨塔の群れが、ガウディを通して、《サクラダ・ファミリア》を創造させたのではあるまいか。~略~芸術作品は、すぐれたものであればあるほど、作者の思惑から自立して、生きた物質のように奔放な生命力を放ちだす。芸術家は、自分をあざけることになるかもしれない作品を作ることに血道をあげてしまうのだ。無益な自己否定という”遊び”に命を賭してしまうのである。」