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note

「死と生の遊び」読後感
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)を読み終えました。全編を通じて、私が嘗て何らか興味を持ったものばかりで、この書籍を購入しようとした動機が、旧知のものを再度考え直したい欲求に駆られていたためではないかと思っています。副題に「縄文からクレー」までと記されていて、そのうちの幾つかは私が実際に目にしたものも含まれていました。未だ目にしていないのはラスコー洞窟壁画、ケルトの造形美術、ピカソの「ゲルニカ」くらいで、私自身欧州に5年間に及ぶ滞在期間があったので、本書の中に出てきたものはほとんど網羅していると自負しています。ただ、その頃は知識が少なく、何気なく見ていた印象があり、もったいないことをしたなぁと振り返っています。実際の鑑賞体験にはある程度の知識理解が必要で、その時代背景を考えたり、歴史の潮流の中での革新性を考えたりすれば、目の前のものの力が迫ってくるような感覚になったりするものです。ただし、当時の浅はかな知識であってもルネサンスの絵画群や西洋様式の変遷美や印象派以降の前衛に関しては、何かしら感受するものがあり、素朴な心情として、私は異文化の中で圧し潰されそうな感覚を持ったこともありました。日本に帰ってから得た知識では、ドイツ・ロマン派の悲劇的ともとれる静寂な世界を、日本の評論で改めて知ったことと、シュルレアリスムの発現動機を知ったことでした。シュルレアリスムに関しては、再度正面切ってさらなる理解を深めたいという気分になっています。著者のあとがきにこんな文章がありました。「芸術作品は、絵画にしろ建築にしろ、一個の物体であるが、しかし生命なき無機質な物体ではなく、いわくいいがたい生の魅力を放っている。中世のロマネスク教会堂は、石材から成っているが、無表情なコンクリート塊の高層ビルなどとは違って、不可思議な雰囲気を漂わせて存在している。堂内に入れば、その感覚はいっそう強まる。そのように感覚される生は、中世の建築職人、宗教家、民衆の生でありながら、それら多くの中世の人々の生にすら限定されえない広さ、中世という時代をも超える勢いを持っている。一般に芸術作品は、その作者がどれほど強烈な個性の持ち主であっても、作者の生に収まりきらない息吹を発している。ゴッホが描いた絵、ガウディが制作した公園や建物は、作者を超えた広大な生、今なお勢いづいている生を発散させている。だからこそ、ゴッホやガウディと縁もゆかりもない我々現代の日本人の心をも深く捉えて、揺さぶってくるのである。」