Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「批評家マルセル・デュシャン」④について
「マルセル・デュシャン全著作」(ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷)の「第三章 批評家マルセル・デュシャン」について、実際に数多の芸術家を批評しているデュシャンの文章が残されていて、今回は前回の続きを取り上げます。まず画家クレー。「パウル・クレーの絵を前にして人が示す最初の反応とは、われわれがだれでも子供時代に描けたかもしれないものを改めて認めて心地よくなることなのである。~略~間近で見ればただちに分かることだが、こうした最初の印象は不完全であったのであり、たとえクレーがよく『子供じみた』技法を利用するにしても、一種非常に大人らしい思考にこの技法を適応しているのである。」次に画家レジェ。「芸術表現の刷新の彼の最初の試みは、力学的フォルムの方へといっそう進んで行きつつあった。彼は現代世界の機械化諸現象から着想を得て、これらを簡潔な断片で表現した。」次に画家マチス。「彼は、意図的な輪郭線の内部をベタ塗りしこれらを可能なかぎり強調するために適当と判断したデッサンならばすべて導入できるように、解剖学や透視図法のあらゆる慣習を断固無視したのである。」次に画家ミロ。「初期のタブローは、見かけは写実主義だが、強烈な非現実性にしるしづけられた一種の意味を特徴としていた。数年後彼は、パリにやってきて、ダダイストたちの仲間に入った。ダダイストたちは当時シュルレアリスムへの変貌途中にあった。ミロは、これらの接触にもかかわらず、いかなる直接的影響から隔たっていた。」最後に画家ピカソ。「ピカソと同時代の大部分の芸術家との最も重要な差異の一つとは、そのときまで彼が次々と休みなく傑作を生み続けても、衰弱や反復のいかなる兆候も決して表さなかったことである。彼の作品における変わらぬ唯一の方向とは、鋭い抒情性であり、これは時が経つにつれて残酷な調子を帯びてきたのである。」ここからは個人的な芸術家ではなく、全体的な芸術家に対する論考が掲載されていました。「〈芸術家〉は、容赦のない物質主義に基づく世界と対峙しています。その物質主義にあっては、すべてが〈物質的幸福感〉に応じて評価され、宗教が多くの活動領域を失い、もはや精神的価値の大きな分配者ではありません。今日〈芸術家〉は、日々の〈機能主義〉との絶対的対立をなす疑似精神的価値の興味深い貯蔵庫なのです。~略~思うに、今日は〈芸術家〉はかつてないほど果たすべきこうした疑似宗教的任務を持っています。つまり、芸術作品が素人にとって最も忠実な表現となるような内的視像の炎を照らし続けるという任務を持っています。言うまでもないことですが、この任務を遂行するには、最高度の教育が不可欠です。」今回はここまでにします。