Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ブランクーシの生涯と作品」について
「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「3 ブランクーシ 彫刻を拡張する写真」について、その前半部分の「コンスタンティン・ブランクーシの生涯と作品」を取り上げます。本書はこれがあるために私は購入したようなものなので、ブランクーシの作品に関する論考をしっかり味わっていこうと思います。ブランクーシは近代の造形美術の新しい大地を拓いた人で、当初パリでロダンの弟子として働いていたものの、そこを離脱して自身の制作に集中しました。「その(制作)方法は、徹底的に個人の作業、ロダンの彫刻制作とは対極の直彫りであった。つまり、マケットから原型を作り、そこから鋳造や星取りの技術で完成版を引き出す西洋彫刻の伝統的な複製的性格を離れ、素材に直接向かい、1点ものの創造に励むのである。この直彫りへの関心は、当時、パリの芸術界に広がりつつあったプリミティヴィズムや、前衛運動へのカウンターとしての古典回帰、技術への帰依とも軌を一にし、また、ブランクーシにとっては故国ルーマニアの農村の生活世界や造形実践にも共鳴するものであったが、同時に、かたちの単純と純粋を追いもとめる彫刻家のその後の造形活動の起源でもあった。」同時にブランクーシには作品を支える台座の関連が現れてきます。「作品とその周囲の空間の接続や浸透が強まってくると、彫刻本体と床面・地面のあいだに、長らく挟まれてきた伝統的な台座のあり方も、あらためて問われてくるだろう。もはや彫刻作品を鑑者の実空間から引き離す必要はない。ニュートラルな台座は不要なのである。もっとも、ブランクーシの独創は、台座を省き、彫刻を床に直に据えるのみで制作完了とすることはなかった。むしろ彼は、台座部分についても素材を選び、それに精妙なかたちを施し、彫琢の粗密を変えながら、彫刻本体に繋がる性質を与えていったのである。台座が消滅したというよりも、台座もまた作品化したわけである。~略~このような、いわば台座への配慮(台座への作品の浸透)は、ついには台座のみで作品と化すような一種の逆説に到達する。《国境標識》(1945年)を見ておこう。そこでは《接吻》の最終形態が、台座風のキューブの積み重ねに変容している。あるいは、トゥルク・ジュに立つ29・35メートルの《無限柱》(1936年)を見よう。偏菱形の形態、つまり台座状のかたちを15個ほど数珠つなぎに積みあげたモニュメントであるが、そこに像本体とおぼしきものはなく、あたかも台座自体が直接、大地から生えあがり、そのまま作品と化したかのようである。」今回はここまでにします。