Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「〈おもて〉の優位」について
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「1〈おもて〉の優位」について気に留めた箇所を取り上げます。著者が紡ぎ出す論考は、哲学者だけあって卓識が散見されるもので、じっくり腰を据えて臨まないと主張する論点が見え辛いことがあります。私は久しぶりに硬質な書籍と格闘している感覚になりました。「〈おもて〉とは、自我と世界、自己と他者との一切の意味づけの失われるわたしたちの存在の場の根源的な不安のただなかから、はじめて同一性と差異性とが、意味と方向づけとが、〈かたどり〉を得、〈かたり〉出されてくる、まさにそのはざまの別名にほかならない。〈おも-て〉の『て』は、〈うしろ-で〉〈うら-て〉の『で』『て』とおなじく、〈おもつへ〉=面つ方、〈うしろつへ〉=後つ方の語尾のちぢまった形であり、こうしてみればあきらかなように、方向を示す。〈おも-て〉は、原初の混沌と不安のカオスの中からはじめて意味づけをえたコスモスがたちあらわれてくる始源の方向づけをかたどり出すのだ。~略~〈おも-て〉の『おも』は重に通じるとともに、また、〈おもふ〉=思ふの思にも通じる。〈おも-て〉によって方向づけられかたどられるコスモスは、同時に、はじめて、ひとの〈思ひ〉をかたどり定着する。〈おも-て〉=面=顔とは、まさに、〈思ひ〉のかたどられる場所にほかならない。」さらに文章で重複する箇所があるのは著者が重点として扱っているものだろうと思っています。「〈おもて〉とは、〈主語とならない述語〉であり、また、〈意味されるもののない意味するもの〉である。〈おもて〉とは、また、カオスの根源的な不安から意味をもったコスモスがたちあらわれ、〈おもみ〉と〈おもひ〉として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出るはざまそのもの、対象化されえない述語面が〈声〉を根として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出る、〈おもて〉あるいはペルソナのその〈声〉は、一体誰の声なのか。いいかえれば、〈おもて〉のペルソナは、一体いかなる〈人称〉をもつのか。」そうした考え方に日本語の独自性が介在していることを語った箇所もありました。「〈わ〉(我)、〈な〉(汝)、〈か〉(彼)あるいは〈た〉(誰)といった人称代名詞の基礎的な体系の圏外に属する全然系統をことにする人称代名詞を、すくなくともわたしたちの日本語はもっているようにおもわれる。それは、しかも、〈おもて〉と最初の音韻を共有するのだ。〈おのれ〉ということばが、我と汝の意味を二つながらもつことは、今日のわたしたちの言語感覚からしても、何とか生きた使い方としての命脈をたもっている。」今回はここまでにします。