Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「 あらわれとCopula」について
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「3 あらわれとCopula」について気に留めた箇所を取り上げます。本章は主題の導入部で「円空・木喰展」に著者が訪れた時の感想があり、一木彫りを日本独自の「樹木の精霊」としている論考に、私は感じ入ってしまいました。そこから導かれて和辻哲郎の倫理学からの引用箇所があって、私は和辻著による「風土」が40年以上前に中途半端なまま書棚に残されていることを思い出しました。近いうちに再読をしなければと思っています。今回の題名になっているCopulaとは繋辞の意味で、文章の主語と述語を結ぶための補助的な品詞のことを言います。そんなことを念頭に気に留めた箇所を拾います。「〈存在〉とは、間柄としての主体の自己把持、即ち〈人間〉が己れ自身を有つころ、いいかえれば『人間の行為的連関』であり、したがって、存在とは、厳密な意味においてはただ『人間存在』である、と和辻はいう。~略~個々の人という意味とともに、とくに〈間〉という語によって、人と人との間柄、共同存在、社会、つまり〈よのなか〉〈世間〉の意味をあわせもっており、個体的でありうるとともにまた社会的であるという具体的な人間のあり方としての二重性格を的確に指し示しているからである。」人間についてさらに考察が続きます。「『人間が己れ自身を有つこと』、〈ひと〉としてあることは、『われ自身が他者にとってまた他者であることの理解』『われにとって他者がまたそれ自身”われ”であることの理解』をまって、いいかえれば、〈われ〉と〈ひと〉との間の反転可能ないわばあわせ鏡の構造としての場所に首尾よく位置をしめることによって、はじめて可能になる。」また別の言い方でこのように表しています。「〈ある〉の語は、元来の用法においては、神霊の出現あるいは神霊の意志の顕現を意味することが多い、という。『あらたま』などの『あら』(荒)、『あら』(新)、『あら』(現)、『生る』、『あらわる』、『あらわす』などは、すべて相互に関連をもつ一連の語であり、『勃然として発生してきたものの、ナマのままのエネルギーをいうものであろう』と、〖日本国語大辞典〗の『あら』の項には記されている。『がある』『である』という形をとって、〈間柄〉あるいは『人間存在』を表現し、またその〈わけ〉の総体にサンクション(制裁措置)をあたえる〈ある〉は、反面、また、形あるものと形なきもののはざまに存立の場をもち、このもっとも根源的な〈わけ〉〈あいだ〉〈ことなり〉をあらわすことばでもあるのだ。」今回はここまでにします。