Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「日本語の思考の未来のために」について
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅲ 日本語の思考の未来のために」について気に留めた箇所を取り上げます。この章では欧米語と日本語の比較検討から日本語のもつ独自性を浮き彫りにしています。「日本語による思考が、概念化的・客観的な方向よりも、むしろ、いわゆる〈余情〉や〈言外の意味〉を生命とする詩的あるいは美的な方向に向う強い傾きが出てくることは見やすい道理であろう(たとえば、『東洋人の思惟方法』で中村元が示すように、日本人は、仏教の教理やさらにはインド伝来の論理学である〈因明〉さえも、あるいは和歌のなかにうたいこめ、また美的儀式の対象に解消してしまった)。沈黙のうちに没し去る、隠喩の無限の多様性の空間に、あるいはどこまでいっても素顔に達することのない世界という仮面の無限の重なり合いの空間に向ってひらかれた、このような日本語のすぐれて詩的な思考は、日本人の時間体験と密接なつながりをもち、たとえば、西田幾多郎、柳田国男、川端康成といったひとびとにその典型がみられるような、一種の〈日本流の生の哲学〉、すなわち、はじめもおわりもない悠久の時間の流れの中に、生死すらも連続とたわむれの相の下にとらえてしまうような思考を生むことにもなろう。」一方、西欧についての考察も述べられていました。「西欧の合理主義的形而上学の世界から詩的言語さらには隠喩を典型とする原初的な多義性の思考の復権によって脱出しようとするハイデッガーをはじめとするひとびとのくわだては、詩的思考をむしろその本領とする日本語の思考の伝統からいえば、ある意味で、なじみやすいものをもつ。」さて、ここで検討されるべき論考がありました。「日本語による思考とまたそれへの反省的自覚の歴史をふまえながら形成された言語についての一般理論が、ある意味で、西欧の今日の思考の展開の先端とふれ合い、またそれを先取りするものをもつことは、日本語の思考が欧米語の思考よりもすぐれているとか、あるいは、西欧の思考の行きづまりからの脱出の方向にただちに合流し協力することができるといったことをただちに意味するものではないことはいうまでもない。西欧の思考が行きづまりの様相をみせてきたから、今度はこちらの出番だ、というように簡単な具合にはとてもいかないのである。」今回はここまでにします。