Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ことだま」について
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅳ しるし・うつし身・ことだま」のうちの「3 ことだま」について気に留めた箇所を取り上げます。「言霊(ことだま)とは、言のうちにこもりて、活用の妙をたもちたる物を申すなり。」とあるのは富士谷御杖の歌論書「真言弁」です。本章ではこの「真言弁」の解釈に従って進んでいきます。「歌の出現する場所は、〈公身〉と〈私心〉、〈うつつ〉と〈ゆめ〉のあいわたる境である。為に出て時を破ることをせきとめられた所思・所欲は、いわばひとたび死んで冥界に下り、彼我の心底を貫流する霊の生命を汲んで、通常の言語の道のたえたところに、人称的帰属をもたぬ歌の言として、よみがえる。」私が気を留めた箇所ではありますが、今一つピンとこないものがあります。富士谷御杖とはどんな人物だったのか、まずこの点に留意した文章を選びました。「言霊をめぐっての御杖の思索は、所思・所欲といった人間のもっとも基本的な情念的基盤から出発して、時あるいは時宜またいわば社会的規範としての〈神道〉との関連において、そこからの主体ないしはは相互主体的世界の文節・形成の構造をあきらかにし、さらに、言行の為によって社会的主体の形成にまでまっとうされなかった〈ひたぶる心〉の歌の詞の真言への屈折を説くといったような形で、ともすれば情緒に流されがちな日本人にはめずらしい広い視野と透徹した論理をもって進められている。~略~御杖の思考は、いわば所思・所欲の原始分割(両端へ向けての分割)による事物とことばの文節の出現にあたって、脚結あるいは『てにをは』の果たす基本的な役割に深くおもいをいたすことによって、おのずから、すでに日本語の構造について見た際に触れた、日本語の特徴的構造の反省的自覚の流れにさおさしつつ、日本語のもつあえて〈言挙げ〉することを極力避けるいわゆる情緒的性格、日常の事物のもつ抽象的一義性の論理よりは、情念のもつ両価性の論理によりよく見合った日本語のあり方について、他に類を見ないといってよいほどの鋭い自覚に到達している。」今回の「ことだま」の章で「仮面の解釈学」全体を読み終えたことになりますが、私自身理解が及ばぬところもありました。とくに日本語そのものを掘り下げていく論考は、私にとって新たな学問分野であり、興味をもった半面、自分の貯蓄された知識の薄さに嘆いてしまいました。今後も頑張って同水準の読書は続けていこうと思っています。