Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「沙漠」について
「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)の「第二章 三つの類型」の「2 沙漠」について、気を留めた箇所を選びます。「人間の有り方としての沙漠は、人間の社会的歴史的なる性格と離すべからざるものである。沙漠はその具体性においてはただ人間の歴史的社会にのみ現出する。自然科学的ある沙漠に達するためには、人はこの具体的なる砂漠から、あるいは沙漠的なる人間社会から、あらゆる人間的性格を捨象するところの、抽象の立場に立たなくてはならない。自然としての沙漠はかかる抽象にほかならぬ。そうして『抽象』は人間の力の一つの偉大な特性である。」沙漠の環境に住む人々の風景をこのように表現した文章もありました。「突兀とした山は徹頭徹尾偶然的な形であって、そこに何らの規則、あるいは目的を感ぜしめない。海や平沙は横に長い直線を示しはするが、それは極度に単調であり、また何のまとまりをも含まぬ。しかるに人間の家のみは、方形、長方形などの、幾何学的に規則立った、完結せる形をもってその中に浮ぶ。それはまさに人間の作り出した形である。」アラビア美術について論じた箇所もありました。「この特性はそのままアラビア美術として結晶した。あの華麗なアラビア風の装飾模様がいかに著しく人工的であるか、あるいはまたあの簡素と力強さとを輪郭に現わしたモスクがいかに著しく夢幻的であり離自然的であるか、それを正しく理解せしめるものは、沙漠的人間の自然への対抗である。」この状況で私はどうしても宗教のことが気になって仕方がないのです。「部族の全体性を神として感ずることは一般に原始宗教の特徴であって沙漠にのみ限らない。しかし部族生活が単に原始的たるに留まらず特に沙漠的生活の様式として意味を持つと同じく、部族神の信仰も沙漠生活の必然性によって他のいずれの場合よりも強烈である。その特異性が部族神を人格神たらしめた。神は『自然と対抗する人間』の全体性が自覚せられたものであり、従って自然の力の神化の痕跡を含んではいない。自然は神の下に立たねばならぬ。~略~しかしかかる部族神の一たるヤーヴェがいかにして統一的な人格神となったか。伝説はモーゼの事業を語っている。モーゼを通じヤーヴェの神によってイスラエルの族が『部族』の中の大いなるものとなったのである。~略~そこでヤーヴェは一般に人間の神となる。それが沙漠を通じて現われたと否とにかかわらず、ーあるいは人間のいかなる生産の仕方、いかなる生産関係がその地盤に存するかを問うことなく、ーヨーロッパの人間はその求めつつあった神がここに与えられたと信じたのである。もとよりここでは神は、キリストを通じて、愛の神に転化している。しかしそれにもかかわらずこの『人格神』は、沙漠的人間が沙漠的であるがゆえにのみ見いだし得たものである。」今回はここまでにします。