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「芸術の風土的性格」➂
「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)の「第四章 芸術の風土的性格」の中で気に留めた箇所をピックアップします。今回はその➂です。「東洋と西洋というごとき『ところ』の相違が精神的構造の相違を意味することになる。それはただに芸術の特殊性の問題に関するのみならず、物質的生産の仕方にも、世界観や宗教の形式にも、総じて人類の一切の文化産物に関する。我々が初めに単純に『湿気』として言い現わしたことは、ただ単に気象学の問題とさるる現象ではなく、一方に峻厳な人格神の信仰を産んだ乾燥な沙漠生活の極度に意志的実践的な生き方、他方にあらゆる生物の一であることを信ずる湿潤な地方の極度に感情的冥想的な生き方、そうしてその両者に対して人間中心的な知的静観的な生き方を区別せしめる精神的構造上の一つの原理である。」ここでは芸術の相違というより、まだ人間の精神的な風土上の相違に留まっていますが、次の文章では芸術の風土的性格の根幹をなすところが述べられていました。「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。それはちょうど人が自然において何を求めているかを反映したことにもなるであろう。ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服されるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。特にヨーロッパ的なる詩人ゲーテがいかに熱烈な博物学的興味をもって自然に対したかはほとんど我々を驚倒せしめるほどである。人はその無限性への要求をただ神にのみかけて自然にはかけぬ。自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、知的興味は全然示さなかった。自然とともに生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さを待って初めてあり得たことであろう。」東洋と西洋の風土が齎す文化土壌が極めて異なることを浮き彫りにした論考でした。今回はここまでにします。