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古寺巡礼「エンタシスの柱」について
「古寺巡礼」(和辻哲郎著 岩波文庫)は単元で分けず、内容として私の興味関心を惹いたものを順次取り上げようと思います。今回取り上げるのは「エンタシスの柱」です。法隆寺と言えばエンタシスの柱が有名で、ギリシャ古代建築に見られる様式です。私は学生の頃は、これが本当に遠いギリシャから遥々伝来したと信じていました。「古寺巡礼」でも結論は述べていないにしても曖昧な言い回しになっているように感じます。「この建築の柱が著しいエンタシスを持っていることは、ギリシャ建築との関係を思わせてわれわれの興味を刺戟する。シナ人がこういう柱のふくらみを案出し得なかったかどうかは断言のできることではないが、しかしこれが漢式の感じを現わしているのでないことは確かなように思う。仏教と共にギリシャ建築の様式が伝来したとすれば、それが最も容易な柱にのみ応用せられたというのも理解しやすいことで、これをギリシャ美術東漸の一証と見なす人の考えには十分同感ができる。もしシナに漢代から唐代へかけてのさまざまな建築が残っていたならば、仏教渡来によって西方の様式がいかなる影響を与えたかを明白にたどることができたであろう。しかるにその証拠となる建築は、ただ日本に残存するのみなのである。そうなると法隆寺の建築は、極東建築史の得難い縮図だということになる。その縮図のなかにあの柱のふくらみが、著しく目立つ現象として、宝石のように光っているのである。しかし一歩を進めていうと、この建築は、単に柱のエンタシスのみならず、その全体の構造や気分において、西方の影響を語っている。シナには六朝以前にこれほど著しい宗教的建築物がなかった。高楼は造られても人間の歓楽のためのものであった。天をまつるために礼拝堂が建てられたということをわれわれはきかない。従って大建築は宮殿や官衙のほかになかったであろう。その建築の様式を利用して純粋の礼拝堂を造り、また礼拝堂の対象たる塔婆を造るに至ったことは、たといその様式に大変化がなかったとしても、なお建築史上の大変革といわなくてはならぬ。」現在ではエンタシスの柱はギリシャから伝来したとは考えにくく、東西で同じ発想によりそれぞれで造られたものではないかという説が一般的です。引用文にもありますが、渡来経路でそうした柱が見当たらないのがその要因で、我が国にも構造の上で優れた感覚を持った人が存在していたのでしょう。