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note

新聞記事より「自分を満月に」
今日付の朝日新聞の「折々のことば」にあった記事に気持ちが留まりましたので、NOTE(ブログ)に書いていきます。「一人が一度に背負う悲しみには限界があります。だから仲間が一緒に引き受けて、一人の深い憂いに寄り添うの。石井哲代」この人には何があったのか、深い憂いとは何のことなのか、鷲田精一氏の解説はその人の生涯に触れていきます。「人は死んだら終わりではない。同じ時間を過ごした仲間が覚えていてくれるなら、その人はまだ居る。年に一度開く『偲ぶ会』も、だから各自が背負う悲しみを共に乗り越えてゆく集いなのだと、元小学校教員は言う。そうして欠けた三日月のような自分を満月にしてゆくのだと。石井と中国新聞社の共著『102歳、一人暮らし。』から。」大きな悲しみを背負ったまま亡くなった人に、仲間たちがその人を偲び、背負った悲しみを分かち合う場面を思い浮かべることが出来ます。私は個人的には特別な悲しみがなかったとしても、解説にあった「人は死んだら終わりではない」という文章が心に刺さりました。人は何かを抱えたまま死んでも死にきれない、それは後悔なのか、誤解が解けないままなのか、何かしっくりこない死に様に、複雑な胸中になるのは私だけではないでしょう。自分の命が果てても仲間が引き継いでくれる、共有してくれると思うだけで、穏やかに旅立てるということなのかもしれません。「欠けた三日月のような自分を満月にしてゆく」という比喩は、生涯達せられなかったことに対する不思議な希望が感じられて、何とも言えない気持ちになりました。自分を振り返り、臨終の淵に立って自分を満月と思えることがあるのでしょうか。私には答えが見つかりません。