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「生涯と神話化」について
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の第1章「生涯と批評」の中の「1 生涯と神話化」の気になった箇所を取り上げます。「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは1571年のおそらく9月29日にミラノ、あるいはその近郊の町カラヴァッジョで、カラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァの『マギステル』(石工、建築家あるいは執事、家令のような職)であったフェルモ・メリージとルチア・アラトーリの子として生まれた。」父は当時流行ったペストによって1577年、母は1590年亡くなったようで、弟と妹とで財産分与をしたようです。「ミラノで修業した画家の多くは当地に留まって活躍するものであり、さらにより近いヴェネツィアに行くという選択肢もあったにもかかわらず、ローマに出たということは~略~ミラノで殺人などを含むトラブルに巻き込まれ、そこを離れざるを得なかったという理由、~略~当時のローマが空前の建設ラッシュで美術家の需要が著しく高まっており、ヨーロッパ中から美術家を集めていたという事情があった。」カラヴァッジョの実力が徐々に出始めた頃に、こんなこともあったようです。「1601年頃から生来の素行不良が目立ち、喧嘩、暴行、器物損壊、武器不法所持、公務執行妨害などによってしばしば官憲の手を煩わせてサンタンジェロ城の監獄へ出入獄を繰り返し、犯罪記録に頻出するようになる。裕福になるにつれ、賭場や飲み屋を渡り歩き、あちこちで問題を起こすようになったのである。」1603年から宗教画の傑作が生まれたにも関わらず、また事件がありました。「1606年5月29日、賭けテニスの得点争いの喧嘩といわれるが、日頃からカラヴァッジョのグループと対立してたグループのひとりで売春婦の見張りなどをしていたラヌッチオ・トマッソーニを殺してしまい、その日のうちにローマから逃亡する。彼には、見つけ次第誰であっても殺してもよいという死刑宣告が出され、この布告が以後彼を不断に苛みつつ南イタリアを転々とさせたのである。しかし、以後没するまでの4年間の漂泊時代は、同時にカラヴァッジョの芸術の円熟期でもあった。」カラヴァッジョの最期はトスカーナまでの行程で浜辺を歩いている最中に熱病に倒れ、息絶えたという神話がありますが、実際は「近年の記録によってカラヴァッジョは地元のサンタ・クローチェ同信会に看取られてなくなったことがわかっており、決して海辺で倒れてそのまま野垂れ死んだわけではなかったのである。」今回はここまでにします。