2026.04.21
今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「手を下した本人が気づかないところで画面上に物質的な痕が『起きて』しまっている絵… 大竹伸朗」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「絵といえば芸術という思考習慣は、絵の意味をむしろ隠蔽すると画家は言う。『美術的空間のみにて成立するアート』と、国道沿いの看板や子どもの落書き、ビジネスホテルの壁にかかる”無難な”絵などを互いに等価な『表面』として見る中ではじめて、人は己の内に潜む得体のしれない感情の生成にふれるのだと。随想集『ビ』から。」私はギャラリーという箱の中で作品を発表することに拘っているため、まさに「美術的空間のみにて成立するアート」をやっている者です。そんな私が美の概念をどんなに説こうとも、自分自身は旧態依然とした思考習慣の中で生きているため、日常空間の中で出会うさまざまな美を論じても説得力を持ちません。そうであっても私も街中で発見する何かに得体のしれない感情を抱くこともあるわけで、おそらくこれを絵として捉えれば、美の概念が明らかに広がっていると思えます。また、この得体の知れない感情は何だろうと思うこともあり、それを美術分野で括っていいのだろうかと現代美術の定義さえも疑いたくなることもあります。街中で気を留めたモノを何とかして自分の中に取り入れ、それを表現にまで持っていくには、そこに創作行為が生じます。等価な表面を多様性に富んだ表現にしていくためにどんなことをすればよいのか、その方法を提示していくような発表形態を、最近のアートフェスティバルやコンクールで見かけることが多くなっています。それが最近の傾向かもしれず、そのコンセプトがアートの現在地点と言ってよさそうです。私は何かアイディアがあっても、そのコンセプトを継続・深化させることが出来ず、結局「美術的空間のみにて成立するアート」をやっていることなのだろうと思っています。