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「オーストリア近代デザイン運動の胎動」のまとめ②
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第一章 オーストリア近代デザイン運動の胎動」の後半部分をまとめます。ここでも内容を2つに絞ります。一つは帝国立オーストリア芸術産業博物館の開館に関することです。「1860年代から1870年代にかけて、アイテルベルガー(ルドルフ・フォン・アイテルベルガー)を中心にハプスブルク君主国の最初のデザイン改革が実行された。近代的工芸生産・教育体制の確立は国家の産業振興に通じる点で重要であり、アイテルベルガーやファルケ(ヤーコプ・フォン・ファルケ)はサウス・ケンジントン博物館やゼンパーの博物館構想を研究し、その実現を綿密に計画した。同時に、芸術産業博物館の実現への皇帝自身の強い意欲と、ライナー大公の実際的な関与状況から、一連のデザイン改革が君主国内の工業化とウィーンの大規模都市改造を背景とした、国家の威信をかけたプロジェクトであったことがわかる。それは、アイテルベルガーが制度面ではイギリスを手本としつつ、様式面ではイタリア・ルネサンス様式に基づくオーストリア固有の様式を目指したことからもうかがえる。」次はグスタフ・クリムトを中心とするウィーン分離派による芸術刷新です。「ウィーン分離派の芸術刷新運動が、英国アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け19世紀末に全ヨーロッパ的に興隆したユーゲントシュティールの一環であるとともに、特に国家の政治状況と密接に関わった文化運動であった事実である。ウィーン分離派には、近代化に向かう諸外国の動向から取り残された自国の芸術の、国際的水準への引き上げという明確な目標があった。そこで彼らがオーストリア独自の近代芸術を目指した点や、オーストリアの芸術家のみを正会員とした点は、メンバーの強い国家意識を示唆している。それは、当時先鋭化した偏狭な民族主義に対する多元的な『ひとつのオーストリア』という国家的理想であった。ウィーン分離派は、産業振興の目的とは無縁であった。1860年代と同様、彼らの活動には政治的力学が作用していたが、政府の期待は国民経済への寄与ではなく、19世紀末に先鋭化した民族問題への貢献へと変化していた。」私が当時よく分からなかったのは、ウィーン分離派の立ち位置でした。ウィーン造形芸術家協会を保守的傾向、ウィーン分離派を前衛と考えるならば、国家が分離派を擁護している社会的背景に今ひとつ納得できずにいました。これは単なる芸術的価値観の相違ではなく、時代も大きく作用していたことが判明して、漸く理解ができました。今回はここまでにします。