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ボイスを巡る理論
「ボイスから始まる」(菅原教夫著 五柳書院)を読んで最初に出会うのは第二次大戦中のユダヤ人大量殺戮で、戦後ドイツ人芸術家が負った宿命の記述です。「想像されるのは、ボイスにとってドイツが背負うホロコーストの罪は余りにも重く、これをどう贖い、傷をいかに癒すかに苦慮し続けたことだ。」と要約された文章にある通り、第一章「アウシュヴィッツは描けない」の中で、ボイスの表現活動においてホロコーストの観点を拭えないことが、アメリカの批評家から指摘されている箇所があります。次の章では抜粋にやや飛躍がありますが、「『ドイツ的』なヨーゼフ・ボイスは、このワーグナー、ニーチェの栄光の流れに位置しようとするだろう。この点においても、自らをワーグナーに似ているとする指摘はボイスにとって悪くはないのである。となれば、彼を余りに『ドイツ的』とするフルクサスやアメリカの批評との対立は、古代ギリシャ対古代アレキサンドリア・ローマの構図、現代風に置き換えればドイツ、ヨーロッパ対アメリカのそれにもたとえられるかもしれない。」とあります。これはどういうことかと言えば、ニーチェによって提唱された「芸術の発展はアポロン的とディオニュソス的なものの二重性」という定義があり、簡単に言えば表象や視覚芸術(アポロン的)と陶酔や音楽(ディオニュソス的)という相反する二重性が芸術には欠かせないとしているのです。その二重性を総合したのが音楽家ワーグナーであり、ボイスも造形美術分野で、その使用する物質が変化したり流動したりするため、ワーグナーと同じ世界観をもつのではないかと論じています。それを総じて「ドイツ的」と言っていて、古代ギリシャに通じる概念であり、古代ギリシャの対抗として古代アレキサンドリア・ローマの概念を持ち出しています。ボイスを巡る理論では、哲学としての史観をもって文化発祥まで遡らないと捉えられない壮大なスケールになってしまいます。ニーチェの視点は、以前読んだシュペングラーにも通じていて、自分の関心も高く、楽しみながら読んでいるところです。