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芸術表現と国家について
今日は大袈裟な表題をつけましたが、現在読んでいる「オブジェを持った無産者」(赤瀬川原平著 河出書房新社)の「Ⅱ」に登場するもので、当時若かった故赤瀬川原平が、芸術家から見た社会情勢を先鋒鋭く説いた文章を包括するテーマが「芸術表現と国家について」ではないかと思います。本書の「Ⅰ」は、主に1967年に千円札を作品化したことで裁判になった「通貨及証券模造取締法違反被告事件」の実際の意見陳述書やそれに伴う随想が収められていて、当時の芸術表現を巡る検察庁とのやり取りが詳細に語られていました。「Ⅱ」は裁判以前からその後に至る文章を集めたもので、古いものでは「あいまいな海」(1963年)が掲載されていました。赤瀬川原平若干26歳の時の文章です。この時代は前衛美術家集団ハイレッドセンターを結成した頃で、社会通念に囚われない表現を求めて、彼は廃品を素材にした作品を作っていました。文章は表題のような芸術表現と国家について論じたものがあれば、詩的なものもあって、文章そのものもシュルレアリスム的な雰囲気を持っています。表題の趣旨を述べた部分を取り上げます。「『有名』の蓄積による歴史は、すでに現象の確定であることを優位として、不確定の昂揚する現在を平定させる法の規範となっている。そして現在にある無数の偏見の中に法として割りこんでくるその歴史は、ひとつの偏見であることをのり超えて、犯しがたい真理となっている。要するに残された正統の歴史というのは、正統の権力の体系なのである。~略~好奇心というものは、その動作がそれ自体自由であってこそ、そして何物も顧みない無責任なものであってこそ好奇心であるのであり、責任ある好奇心というのは、プロペラの回転軸を糊づけにされた飛行機のようなものであって、それは好奇心ではありえないのである。」間接的に芸術表現と国家について述べた箇所を引用いたしました。