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「日本に祭る おもかげの国・うつろいの国」について
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第五章は「日本に祭る おもかげの国・うつろいの国」について取上げています。古田織部と山片蟠桃の生い立ちやその業績から始まる随想の中で、自分はとりわけ古田織部の縄文的変形と言うべきか、歪みをもって美とする破格で大胆な造形に興味が湧きました。花道家中川幸夫の作り出す世界にも触れ、生け花を喩えにして「死と再生」にテーマが移りました。そこで漸く祭りが登場してきます。「世界中のどこの民族も部族もお祭りが好きで、祭りがなければその民族や部族の文化はなかったともいえるほどなのですが、その祭りに、さてどのような意図や組織が動いているかということになると、これは風土・地域・民族・部族・時代・食生活などによってかなり異なってきます。いったい文化を見るには、基層文化と表層文化によって見方のちがいをもったほうがいいと思います。基層文化というのは伝承性がかなり高いもので、その地域や民族にとって気がつかないほど底辺の習俗になっているものです。一方の表層文化は時代性が強いもので、たとえば正倉院の宝物に象徴される天平文化はシルクロードを通った文物が時代の表層を突破して強烈に焼きついたものですが、それは海外の文化が時の支配層などによって積極的に表層文化としてとりいれられ、定着したと考えられる。~略~私はこの基層と表層の文化のちがいを生物学の用語を借りて、『ジェノタイプの文化』と『フェノタイプの文化』というふうに見ています。ジェノタイプは遺伝型、フェノタイプは表現型のことです。」著者は分かり易く文化をタイプ別に分類して述べた後、日本の祭りに論考が及びます。「日本の祭りの根底を眺めていくと、そこにはいろいろな特色がありますが、その大きな共通性のひとつに『擬死再生』という考え方が出てくるのです。擬死再生というのは民俗学用語で、いったん当事者の『からだ』を死んでみせたことにして、それをあらためて再生させるという儀式の仕方のことをいいます。つまり仮の死をつくる。そうして再生させる。むろん実際に死なせるというわけではなく、そういうふうな祭りかたをするわけです。」これはエジプト神話のイシス性と著者は呼んでいて世界中に流布しているため、こうした考え方は至る処に存在すると言えます。最後に日本の民俗学へ話が及び、「ハレ」「ケ」「ケガレ」「キヨメ」という語句に拘る部分が出てきます。「ハレは『晴』で非日常性のことを、ケは『褻』で日常性をさします。~略~ケには枯れたり汚れたりしてしまうことがおこります。これをケガレといって、漢字では「穢」の字をあてる。そこでこのケガレを払拭し、元に戻すことにする。これがキヨメ(浄)とかハライ(祓)です。」さらにヒという語句が出てきます。「ヒは『霊』と綴って、ヒと読みます。このヒがウツワ(空)の中にひそんでいて、それがあるときウツツ(現)となって出てくる。それを『産霊』ともいいます。~略~ヒは結ばれることによって、そこに何かがぴったり定着する。~略~日本は何だって結ぶ。結びすぎるくらいに結びます。だいたい相撲の最後が『結びの一番』ですし、小結があれば、大きな横綱を締める結びもある。さらに結納もムスビですし、結婚もムスビです。息子や娘という呼び方も、もともとはムス・コ(結びによって生まれた彦)であり、ムス・メ(結びによって生まれた姫)でした。こうしたムスビは、日本に来た海外人を驚かせた『髷を結う』というところにも象徴されました。」些か引用が長くなりました。