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「日本と遊ぶ わざ・さび・あはせ」について
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第六章は「日本と遊ぶ わざ・さび・あはせ」について取り上げています。冒頭に永井荷風の遊び癖が登場します。「荷風には、名状しがたい『遊び心』というものがあります。私はそこが好きです。一見すると、破綻にむかっているようでそれほどでもなく、むしろキワやハシだけを遊んでいる。そんな感じがします。」という一文で、荷風の遊びは真似のできる代物ではないことが分かります。遊びにもいろいろなものがあり、狩野享吉やら九鬼周造の考え方や生き方を参照しながら、彼らの生き方そのものが「いき」な遊びに精通していることが述べられていました。そこで遊びの定義なるものを語っている箇所に興味を持ちました。「どう見ても日本の遊びには二つのものがあるということです。ひとつは歌垣や田楽や風流や法楽のような、あるいはバサラや歌舞伎のようなスペクタクルで”騒がしくなる遊び”です。もうひとつは詩歌管弦の遊びや茶の湯や生け花のような小さくて”静かな遊び”です。」そこから「スサビ」という語句が派生して、遊びの体系を作っていきます。「古代語のスサビは『荒び』とも『遊び』とも綴る言葉で、このどちらかの意味をたどるかで、スサビの感覚もちがってきます。~略~スサビの系譜からはいくつかの重要な遊びのスタイルが生まれます。なかでも目立ったスサビが『スキ』というものです。スキはいまではもっぱら『数寄』とか『数奇』とか綴りますが、もともとは『好き』のことで、何かが好きになること、とりわけ男女のあいだの『好きぐあい』をさしています。~略~スサビの系譜からもうひとつ出てきたもの、それは和事のスサビともいうべきもので、ワビ・サビの『サビ』に代表されます。」こうした展開を進めていくとサビの感覚は軌道を転回して、次なる語句「ワビ」が登場するのです。「ワビは文字通り『侘び』です。すなわち『侘びる』ことである。まさに貧相や粗相をお詫びすることなのです。」ワビは茶の湯で頻繁に使われるようになります。たとえば「村田珠光が試みたことは、それまでは中国渡来の唐物などの道具を持っていなければろくな茶数寄ができないと思われていたところへ、たとえ名品や一品の一物一品も持たなくても、なんとか手持ちの道具を心を尽くして用意すれば、そこに新たな茶の心が生じるはず」というものでした。最後に「アワセ」についてこんな一文を引用しました。「古代ギリシャや古代ローマも格闘技はさかんだったし、レスリングなどは個人の勝負なのですが、どちらかといえば、観衆や応援者が熱狂するためのものだったのです。したがってスタジアムもいきおい巨大になっていく。これに対して、日本のアワセはあくまでポータブルサイズを重んじています。将棋や囲碁などの盤上遊戯から茶道や香道などの室内遊戯まで、まことに小さめの遊びが発達し、しかも精緻をきわめてきているのです。」今日はここまでにします。