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新聞掲載の「無教会主義」について
昨日、朝日新聞の「折々のことば」欄にあった「無教会主義」という語彙に思わず反応してしまいました。全文を引用いたします。「『かれの批判は教会そのものに対する批判であるよりは、現代の教会が真に徹底的に教会でないところからおこってきたものである。森有正』評論『内村鑑三』から。キリスト教思想家・伝道者の内村鑑三が教団という組織を離れ、無教会主義を貫いたその姿勢の背後には、こういう思いがあったと作家・哲学者は言う。それを政治についていえば、いつの時代もそれへの不信は、それが『徹底的』に政治的でありえていないところ、政治の基本を怠っているところに生まれる。」(鷲田清一著)小欄では政治について語っているのですが、無教会主義という語彙が登場したので、私は亡き叔父を思い出してしまいました。叔父はカント哲学者で、カントの哲学体系の中でとりわけ宗教に注目し、また内村鑑三を師と仰いで、叔父も無教会主義を唱えていました。叔父の葬儀は無教会主義の方々によって行われ、墓地も宗教宗派を問わないところを探したようです。宗教は信仰にあり、カタチを問うものではないと主張した叔父でしたが、そんな宗教概念について、ついに叔父と話したこともなく他界してしまったのが今となっては残念でなりません。宗教とは何か、ヨーロッパで暮らしていた20代の頃に、私はそこかしこにカトリック教会が立ち並ぶ街の風景を見て、その在り方を考えることもありました。私の先祖から受け継がれる宗教は仏教の浄土宗ですが、あまりにも生活に馴染んでいて、宗教を学問として学ぼうと思ったことはありませんでした。寧ろキリスト教のほうが西洋彫刻と結びついていたので、信仰とは別の学習欲求が出てきたのでした。そうした中で叔父が賛同していた無教会主義に対する理解は出来ました。ただし、キリスト教に関しては私に圧倒的な印象を残したのは心理学者フロイトの「宗教論」で、刊行当時は大変悪評高いものだったようですが、これを読んで私の頭はぶっ飛びました。この論考からして当時は相当不謹慎だったのかもしれませんが、民族や宗教の興った背景は、あるいはそうだったのかもしれないと思わせるところが、ある意味において現代的でインパクトを色濃くしているのだろうと思います。