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「ヴァイマルのバウハウス 工房教育」のまとめ①
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第三章 ヴァイマルのバウハウス その二 工房教育」の前半部分をまとめます。「少くともバウハウス発足当初においては工房の基本設備が整わず、ほとんど何も手工芸教育は行なわれていなかった。1920年の春に最初の予備課程を終えた学生が出た訳であるが、その時でさえも、イッテンによれば誰も工房教育の面倒をみる者がなく、彼が引き続き学生たちに課題を与えて世話をしたということである。その後新しい親方が次々に招聘され、徐々に設備が整えられて、工房での教育ならびに生産が続々開始された。」まず陶器工房です。「陶器工房がヴァイマルからかなり離れたところに設けられたことは、バウハウス全体の統一的活動にとって不利な条件であったし、実際にこの工房は孤立しがちであった。しかしながら反面、それによってかえって本校でのさまざまな紛糾や熱狂にまき込まれず、静かに落ち着いて仕事ができたと言える。」それに比べて印刷工房は大変だったようです。「出版予定が狂い挫折したのは、企画そのものを時間をかけて練らなかったこと、編集責任者がはっきりしていなかったこと、依頼された画家の怠慢、それに経済的政治的な混乱などが重なったためである。」その他に織物工房、造本工房、石彫工房、木彫工房、ガラス画工房、壁画工房、家具(指物)工房、金属工房、舞台工房があり、それぞれ特徴的な活動があったようですが、石彫ならびに木彫工房に関してはこんな文章がありました。「実際親方たちの間でこの工房の役割、進んではバウハウスのプログラム内での自由美術の機能についての論議が戦わされたのであるが、これはすぐさま解決されるような問題ではなかった。~略~彫刻工房は、バウハウスが手工芸から機械的工業製品に向うにつれ、生産工房として隘路に立たされ、かといって自由芸術の創造にも没頭できずにジレンマに陥った。」私が実践している彫刻は、確かに機能主義のバウハウスの中では難しいものになるだろうと思います。旧態依然とした美術学校に学んだ私の芸術的主張は、この時代には立場を失うものであったと思います。芸術性が広範囲に広がった現代だからこそ、多様性の中に含まれていく芸術的主張なのかもしれません。さて、後半部分ではバウハウス屈指の芸術家が登場してきます。シュレンマー、クレー、カンディンスキーの登場とイッテンとグロピウスの対立が描かれます。