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「デッサウのバウハウス ハネス・マイアーの時代」のまとめ
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第六章 デッサウのバウハウス その二 ハネス・マイアーの時代」をまとめます。グロピウスの後任として建築家ハネス・マイアーがバウハウス校長に着任します。「マイアーの職務は、言うまでもなくまずグロピウスの理念を継承し、バウハウスの健全な発展を計ることにあった。そして実際に彼は基本的にはグロピウスの精神とその築いた路線を受け継いでいったと言える。」その路線とはどのようなものだったのでしょうか。「もともとバウハウスは機能を軽視するどころか、むしろ基本的には機能主義の立場をとっていた。ところが機能的形態を追求するうちに、あらゆる装飾を排した単純で直線的な形態に到達し、そこで生産されるすべての製品がバウハウス様式と呼称される独特の印象的スタイルを獲得して、これが一つの流行を作り上げるまで世間に喧伝されていた。」マイアーは都市計画の建築に特化した教育体制を作りましたが、グラフィック・デザイン分野でも新しい動きがありました。「すなわち企業が宣伝のために行う展覧会や陳列展は、それまではいわばいい加減に行われていたのであるが、(ヨースト)シュミットは、展示パネルの大きさや配列、タイポグラフィや間仕切りにさまざまな工夫を凝らすことにより、これを新しいデザインの領域として確立したのであった。」室内装飾にも新しい動きがありました。「(アルフレート)アルントの時代の壁画工房の仕事として特記すべきは壁紙のデザインである。これは1929年から壁紙製造のラッシュ兄弟会社の勧誘と委託によって始められたのであるが、現代の住宅にふさわしい壁紙装飾を手軽に行う一手段として人気を呼んだ。」芸術性を排除したバウハウスでしたが、矛盾することもありました。「親方や学生の絵画制作はいわば余技とみなされていたのである。しかるに芸術趣味を認めぬ機能主義者マイアーが芸術教育を公認したのであって、これはマイアーにとって明らかに自己の信条に反する行為であったはずである。何故このような矛盾的行為が行われたのであろうか。恐らく自由な芸術創作を行いたいという学生の要求、さらには芸術教育の必要性を説くクレーやカンディンスキーの意向を取り入れたということであろう。」やがてマイアーの解任がありました。「確かにマイアーは特定の政党に属してはいなかったが、しかしマルクス主義者であることを公言していたし、バウハウスの共同作業の無名性に満足し、バウハウスをプロレタリア化することが時流にかなった改革とみなしていた。このような強い政治的関心の持主であったから、学生たちの政治運動にも寛大であった。」このような姿勢が市会で疎まれたのではないかと思います。