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「デッサウのバウハウス ミース・ファン・デル・ローエの時代」のまとめ
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第七章 デッサウのバウハウス その三 ミース・ファン・デル・ローエの時代」をまとめます。新しい学長として就任したミース・ファン・デル・ローエとはどのような人物だったのでしょうか。「何といってもミースを有名にしたのは、1929年バルセロナで開催された万国博覧会におけるドイツ館の建築である。このパビリオンは流動的空間処理と材料(縞めのう、マッカサル国檀、大理石、ガラス等)の巧みな配合により近代建築の里程標と評価された。こうしてバウハウスの学長に招聘された時、ミースは建築家として最も充実した活動をしていた時であり、いわばその絶頂期にあったのである。」その後、クレーの辞任がありました。「工科大学的な性格が濃厚になるにつれ、絵画教室の位置は相対的に隅に追いやられた。この状態を予見していたパウル・クレーは、まだマイアー在任中の1930年夏、デュッセルドルフ美術学校の絵画教室より招聘の話があったとき、そちらの方が自由が得られると判断し、転任を決意した。~略~1920年以来十年余の間、クレーは生涯の最も実り多き期間を、バウハウスでの教育に注ぎ、それがバウハウスに与えた影響は計り知れないものがあった。」やがてナチスの時代に翻弄されるバウハウスの運命があり、閉鎖を余儀なくされていきます。「重大な理由はナチスがバウハウスを国際主義の根城、そしてユダヤ人の巣窟とみなしたことであった。バウハウスには教師にも学生にも外国人が比較的に多かったのは事実であり、彼らによって不偏不党の自由な雰囲気が保たれていたが、これがナチスの気に入らなかった。~略~いずれにせよ以上の極めて蓋然的な理由から、国家主義・反議会主義・反ユダヤ主義を標榜するナチスにより、バウハウスは目の敵にされたのであった。」バウハウス閉鎖に至る過程でミースが努力したこともありました。「市より給料が支払われ、バウハウスに所属する権利がすべて譲渡されるというこの案は、何といってもミースにとり有利な調停であって、これはひとえにヘッセ市長の尽力によるところ大であった。他の教師たちもそれぞれ当分従来通り市より給料が支払われることになり、市からの補助金八万マルクと校舎こそなくなったが、何とか私立の研究所として継続する最低の保証は確保された。」これよりバウハウスはその名称を維持してベルリンへ移転していきます。