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「理想と経営のはざまで」のまとめ①
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第四章 理想と経営のはざまで」の前半部分をまとめます。「ウィーン工房での採算性を度外視した贅沢なものづくりは、会社の財政難を常態化させた。経営陣はコスト管理に失敗し、多くの品が発注後の見積りよりも安い値段で引き渡され、それでも高額で買い手がつかない商品は在庫に回された。しかし、生産体制の見直しや決定的な経営合理化が遂行されることはなく、深刻な経営危機に陥るたび、富裕市民層の支持者たちが資金を提供することの繰り返しであった。~略~ヴェルンドルファーの資産が尽きて会社存続が一層厳しくなり、1914年に『有限会社ウィーン工房』がウィーン工房の債務を引き受けるかたちで設立された。」どうやらウィーン工房は、会社としていつ倒産してもおかしくない状況があったようで、一部の財閥頼みで会社が運営されていたようです。「三名の設立者のうち、最初にウィーン工房を離脱したのはモーザーであった。1907年にモーザーは、パトロン依存の脆弱な経営基盤と、そうならざるを得ない不経済な生産方式を批判した。彼が個人負担の限界を認識した契機は、妻のエディータ(ディータ)・モーザーを巻き込んだ、ヴェルンドルファーとの金銭トラブルであった。この時の経営危機とモーザーの脱退は会社の経営方針を大きく転向させ、アーツ・アンド・クラフツ運動的な工房団体からデザイン企業への、ウィーン工房の事実上の決定的な転換点となった。~略~モーザーとヴェルンドルファーの関係悪化の発端は、1907年の経営危機の際、ヴェルンドルファーがモーザーに無断で彼の妻ディータに多額の資金援助を依頼したことにあった。ディータ・モーザーは、国内有数の実業家一族であるマウトナー・フォン・マルクホフ家の出であった。彼女の祖父アドルフ・イグナツ・マウトナーが創業した醸造工場は、19世紀末にはヨーロッパで三番目の規模の大企業となり、一族に莫大な富をもたらせていた。」芸術家によるものづくりと企業による商品販売の考え方に大きな隔たりがあるのは今も昔も同じと言えます。「注文主の好みへの依存とは、芸術家の創造性だけでは製品が売れない状況を示している。1907年頃のウィーン工房は、一人の芸術家が一つ一つの製作から販売まで、一貫して手がけることが困難な規模に発展していた。こうした状況でモーザーは、芸術的な創作が困難になったことに不満を抱いた。つまり、彼はヴェルンドルファーとのトラブルを機に、効率的な生産のためデザイナーとしての芸術家と職人または製造業者の明確な分業が不可欠である一方、規模が拡大し、さらに顧客の力が強くなると、芸術家がコントロールする高品質のもの作りが困難になる矛盾を痛感したものと推測される。」今回はここまでにします。