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「1920年代から終焉まで」のまとめ①
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第七章 1920年代から終焉まで」の前半部分をまとめます。この第七章が本書の最終章になります。ここでは敗戦を迎えたオーストリア・デザイン界の状況が述べられています。「第一次世界大戦後、オーストリアは大幅な国土縮小による原料補給地や市場の喪失のみならず、ハプスブルグ君主国という従来の国家の基盤を失った。~略~社会全体で、失業、食糧難、物資不足が人々の日常生活を圧迫した。また、1918年はスペイン風邪の流行により、ヴァーグナー、クリムト、モーザー、エゴン・シーレらウィーン・モデルネの重要人物が一斉に亡くなったオーストリア文化史上の節目の年でもあった。」ではそんな時代のウィーン工房はどうだったのかをここで論じています。「終戦約一年にわたりオーストリア工作連盟は新たなデザイン活動の方針をめぐり混乱していた。しかし、戦前からのウィーン近代デザイン運動の主要な担い手は戦後ラディカルな創作活動へは転じず、従来の趣味性を急速に変えることはなかった。ウィーン工房は、一方では設立者たちの友人、知人、親戚を中心にウィーンの文化エリートサークルを活動基盤とし、短期間で『ウィーン趣味』を国内外に認知させた。他方で、彼らは諸外国の工芸関係者とも積極的に交流し、特にドイツのデザイン関係者との連携は全活動期間を通じて活発であった。~略~戦後ウィーン工房がドイツで活躍した前提として、戦前からドイツのデザイン関係者や市民たちがウィーンと類似の趣味性を有していたことが重要である。彼らは戦後も引き続きウィーン工房製品を受容した。もう一つ重要な点は、新共和国成立後のオーストリアにおける親ドイツ的傾向である。~略~新共和国の近代デザイン運動の方向性をめぐる対立や葛藤は、ウィーン工房ではなくむしろオーストリア工作連盟の活動において浮上した。ウィーン工房は1918年から1920年代初頭の社会的・経済的混乱期を、豊かな創造力の源となった理想主義と一企業としての現実感覚のバランスによって乗り越えた。」文章としては前後しますが、ホフマンの建築の特徴について述べられている箇所がありました。私も実際にウィーンで目にしたホフマンのデザイン観に美しさを感じたので、引用したいと思います。「ホフマン建築の特徴の一つである空間の余白は、1900年頃の展示会場構成に見られる神秘的空間と異なり、開放的なモダニズム時代の空間感覚と一致している。即物性と身体性、合目的的フォルムと装飾の併存は、ヴァーグナーのウィーン郵便貯金局、シュタインホーフ教会をはじめとするウィーン近代建築の系譜に連なる。」私はこの空間感覚が大好きなのです。今回はここまでにします。