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「難波一年、そして香櫨園へ」について
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「難波一年、そして香櫨園へ」についてまとめます。「昭和25年から昭和30年代初め頃までの鴨居一家は、大阪府、兵庫県の間を、転々と間借り生活をしたと伝えられる。」これは姉鴨居洋子(デザイナーとしては羊子と記しています)が勤める新聞社の給与で賄っていたようです。東京の乃村工芸社を退職してきた玲にも、漸く仕事が回ってきました。「田中千代服装学園は、若い女性に服飾デザインを教える機関で、戦前からあり、戦後いち早く復活した。創立者はデザイナー田中千代で、生徒は芦屋及び隣接する兵庫一帯の良家の子女が多く、戦後は時流のニーズに合致して規模を急速に伸ばし、かつては財団法人のちんまりした研究施設だったのが、学校法人の堂々の大組織に拡充、芦屋市大原町の敷地三千坪にハイカラな校舎を擁して、服飾デザインの成果を示すファッション・ショーを学校行事として発足させ、服飾デザイン教育の華やかさを世に強く印象づけていた。しかもなお順調に学園事業が伸びる傾向にあり、玲は、そんな発展期に『ファッション・ドローイング』の講師第一号となったのである。」玲にとって画壇との関わりも大切だったようです。「神戸画壇の様子を、玲は若林和男の口から知った。若林和男は、二紀洋画研究所に学び、『バベル』に属し、バベルの中で最も年が若く、バベルの有力者が二紀の中西勝であることも聞いた。なるほど、神戸はそういう土地柄か。玲は、その時から勃然と神戸画壇への意識が湧くのである。~略~玲が、六甲洋画研究所に入った頃、バベルにも加入した。二紀の中西以外に西村功もこれに属し、行動美術の貝原六一や新制作の誰彼も居て、活発だった。大正一桁から昭和一桁までの年代を集め、若林和男が最年少であることは、前に触れた。またその頃、中西勝は神戸の西代中学で図画教師をしていたが、或時、玲に学校に来て貰い、教室で講和をして貰うと、玲は、動物園の熊のように教壇を行ったり来たりし、『あのですね』を連発して、照れていた。玲は、根ははにかみ屋であるのだろうと、中西は思い、玲の意外な一面を見たような気がした。」表題の香櫨園は玲の住む家の最寄り駅のことで駅の下には夙川が流れていました。