Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ブラジル、パリ、ローマ」について
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「ブラジル、パリ、ローマ」についてまとめます。「昭和40年2、3月の頃と推定される。玲は妻女や岩島雅彦らに見送られて、大阪伊丹空港を発ち、空路、地球の裏側の国ブラジルはサンパウロを目指す。~略~後年玲は、ブラジルに骨を埋めるつもりで赴いた旨、回想していて、確かにそうであったろうし、サンパウロでの生活は、若林(和男)の家近くに借りたアパートで始まり、そこを生活の拠点として、ブラジルの日系人画家との交流も生じるが、居心地は、玲の予感に反し、決していいものではなかった。気候風土、文化風土、そこに育った人々等、余りに明る過ぎ、不安や悩みが無さ過ぎ、そのことが、玲には、不安を誘い、悩みとなるせいである。」ブラジルで知り合った日系人画家たちと、玲はアンデスを放浪し、また若手写実家のラファエル・コロネルという画家からも影響を受けていたようです。日系人画家たちの、クスコへの旅ではこんな描写がありました。「広く深い大渓谷に飛ぶ飛行機は蚊とんぼの如く見え、小さな糸くずのようなのは人家の炊事の煙で、戦争の有様もパチパチ弾ける音やゴマ粒のような人の集まりでそれと判る。アンデスは巨大な地球の皺で、皺の間から水が流れ、水に沿って人間の村や町が出来、その集落の間で戦争まで起きているのが、小さく見おろせるのだ。これを見ながら、自然の偉大さと人間の営みの小ささがまざまざと実感され、何やら永遠だの無限だの崇高だのが想起されて、一同が一様に、不思議な深い感動に浸ったのである。」玲はブラジルを離れて、パリやローマへ行きますが、これは一旦日本へ帰ってからのことではないかと著者は推察しています。この時の玲の制作の様子を同じアパートに住む画家神下雄吉が覚えていました。「神下が下の部屋、玲が上の部屋に居た時期があり、或時玲が、制作中だが見てくれといってきたので、上がっていくと、人物を描いていた。そして、その人物の手は、自分の手を見ながら描いている。それで、玲の人物画が、客観的な写実から入ってないと判った。玲は予め、イメージを持っていて、そのイメージを写実風に拵えていく。造っていく。写実風になる前、シュール・レアリスムであり、それでそのように造る写実になったのだろう、と神下は思った。この描き方に接し、神下は、自分が客観描写から入る方法で、玲との違いをはっきり認識し、と同時に、玲の人物の手が、一寸ぎこちないと感じた。この手のぎこちなさは、後の作品にもしばしば見受けられ、そういうのは、自分をモデルにしながら、イメージに強引に合わせようとしているせいと、神下は解するのであった。」