Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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人格と表現について
表現者はその創作活動を通して、表現された作品が鑑賞者にいかに感銘を与えるかで評価が決まります。表現者の人格が云々されるのは後に回されることもあり、そこが芸術家等の表現者が有する特権かもしれません。先日まで読んでいた画家鴨居玲の伝記では、人格的に課題の多い画家が、それ故に独特な素晴らしい作品世界を創造できたと私は考えます。印象派ではファン・ゴッホがそうした傾向にあったと弟テオに宛てた手紙がそう語っています。時代を遡り、中世には殺人を犯したバロック絵画の巨匠カラヴァッジョがおりました。そこまではいかないにしても、表現者の特権として、作者の人格と表現を分けて考える傾向があり、後世に何を残したかで歴史に選別されているのも事実です。それは映画に携っている俳優にも言えることだろうと私は思っています。飛ぶ鳥を撃つ勢いだった俳優が、性加害の罪を犯したことで仕事を失いました。そんな俳優など見たくもないと思っている人々がいる中で、私は前述のように人格と表現を分けて考えているために、俳優の演技力に一方ならぬ凄みを感じて、それ相当な評価をしてしまうのです。先日観に行った映画「宮松と山下」で主演した香川照之さんもそうでした。色事は芸の肥やしと見る向きもあるのでしょうが、人間の感情表現を抉り取るには、誤解を恐れずに言えば、どんな手段をも選ばないと言うことでしょうか。人間は失敗をして周囲に蔑まれ、そのまま落ちていく瞬時のところで、魂の在り処を認識し、自分の全てを賭けて自己表現を成すことが可能なことに私は薄々気づいています。私自身は失敗を恐れて、自身の感情が打ち砕けるところまで達していないので、薄々気づくことしか出来ないのですが、敢えて破れかぶれになろうとはしていません。自分は長年教壇に立っていたという自負もあるし、彫刻としての自己表現以外は、常にバランスをとって生きてきました。その中で芸術は精神的バランスを崩したところに秀作が生まれることも実は私も経験済みで、苦しみから這い上がろうとした造形的体験が過去にありました。それは人格を歪めるほどではなかったにせよ、表現が人の心を打つには、尋常ならざるものがあって、それは本当に厳しいものだなぁと感じずにはいられないのです。