Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「19世紀ドイツと内面の美学のゆくえ」と「ジャポニスムⅠ」について
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)の2つの単元をまとめます。ひとつは「ゴシックの廃墟から」で19世紀ドイツと内面の美学のゆくえについて論考です。もうひとつは「ゴッホとモネの狂気のなかの日本」でジャポニスムについての論考でこれは前半になります。まずドイツロマン主義とは何か、本書では「肉眼で見える表層よりも心眼で見える深層の方にこそ真理は宿っている。だから表層から深層に遡ってゆかねばならない。」とありました。「精神はひるむことなく死の恐ろしさを直視しなければならない。フリードリヒの《雪のなかの修道院墓地》のような不気味な光景を、あるいはヘーゲル自身が講義のなかで語った『こちらに突然血まみれの顔が現れたかと思うと、あちらに白い亡霊が現れる』という闇の光景を、しっかり見つめなければならない。そしてそれを一つの経験にして自分の存在を構築してゆかねばならない。死の恐怖の前に立ち続けるのではなく、そこから学んで自分を新たに建設してゆかねばならない。」当初はこんな思想があったにも関わらず、時代を経るとドイツの民衆にも変化が生じてきます。「ヘーゲルのようにキリスト教神に寄り添う必要性を徐々に感じなくなっていった。『魔法の力』などと言わなくてもよくなったのである。科学、産業、軍事の面で発揮される即物的な理性の働き、政治交渉の舞台で発揮される実利的で巧妙な理性の働きに自信を深めていった彼らは、キリスト教神を従とし、人間こそ神なのだという人間中心主義の信仰へ移行してゆく。」次は日本の浮世絵が影響を与えた2人の画家についての論考です。「パリ時代のゴッホは、この江戸後期の強烈な色彩感覚、意想外な画面構成に衝撃を覚え、とくに色彩の面で深い啓示を受けて、そのままアルルへと旅立ったのだった。そして強い陽光の下、ものみな色鮮やかに見えてくる南仏の光景に、ここは日本だと上ずった調子でテオを始めとする仲間たちに書簡を重ねて伝えたのである。このようにアルルは日本だと綴るゴッホに幻視者を見てはならない。今日では忘れられた江戸の審美眼を生きた者、そう捉えたい。そして狂気に陥ったことでゴッホのジャポニスムは江戸の庶民文化の深層に達したと私は強弁したい。」続いてモネです。「モネは、ゴッホに劣らないほど日本の美術を愛好し、浮世絵版画から多くを学んでいたが、ゴシックの大聖堂を変化の相で描くにあたっては、近代西洋の認識観から離れられずにいた。あるがままの現実こそ真実であり、真実であるからこそその現実を捉えきらねばならない。変化する現実こそ真実であるのだから、それを画布に描き取らねばならない。信と偽の識別、真実に対する所有欲。広重、北斎が聞いたなら、一笑に付してしまうであろう認識観だ。そして西洋の遠近法をこともなげに解体した彼らが《ルーアン大聖堂》の連作を見たならば、せっかく遠近法の漸増観を無視したのにもかかわらず、まったく同じ構図で変化の相を際立たせてゆくモネの発想に、稚拙で硬直した執拗さを、早い話、曲のなさ、遊びのなさ、芸のなさを実感したことだろう。」