Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ピカソの《ゲルニカ》」と「パウル・クレーと、現代への遺言」について
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)の2つの単元をまとめます。ひとつは「死の国への哀歌」と題された単元で、ピカソの《ゲルニカ》のことが論じられています。ふたつ目は「死と生の呼応」と題された単元で、パウル・クレーと、現代への遺言について書かれていました。まず、ピカソの代表的な絵画「ゲルニカ」ですが、その制作動機の概案しか知らなかった私は、劇作家で詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)が絡んだ論考にちょっとした衝撃を受けました。「正義の観念は麻薬的な働きをする。多くの人間によって支持されるという思いが安らぎを与える。ロルカは、死んだ闘牛士など『死の国』の人々への哀歌を何作も書いたが、しかしそうすることによって自分を救おうだとか、善人という心の支えを手に入れようなどと思いもしなかった。彼の心にあったのは、自分自身『死の国』の中にいる、『死の国』を生きているという実感だった。ロルカがもしもあと数年生きていたならば、《ゲルニカ》を『死の国』への哀歌として公表したピカソに対し、どのような思いを持っただろうか。とりわけ、絶叫の光景に見入る雄牛の姿をどう思っただろうか。めざとくそこに欺瞞を見出したにちがいない。国外で正義の人として活躍する強かさの裏に、道徳上の不安を解消し英雄的な画家として生き延びてゆきたいとするピカソの弱さがあることを見てとったにちがいない。」第一次大戦に従軍したクレー。スイスへ逃避を余儀なくされた彼の環境を語っている箇所がありました。「晩年のクレーが受苦していた身辺の状況、およびそこでの彼の心理は、第一次大戦後の《沈潜》の頃と同じではない。置かれていた状況はずっと辛く厳しく深刻であり、にもかかわらず彼の心理は外界に向けて開かれていた。~略~こうした逆境に加えて1935年夏には進行性の病いの宣告を受けている。たいがいの人間は、死の近いことを告げられると、何に対してであれ意欲を失ってしまうものだが、クレーは逆に作品制作への情熱を高めた。36年から死の年の40年までに描かれた作品はおよそ2400点、全生涯の作品の約四分の一がこの時期に制作されている。~略~晩年にさかんに描かれた天使の素描画の一枚《いまだ醜く》が今しも彼岸に達しようとしているが、その到達は果たされずにいる。~略~クレーのこの静物画らしき絵は、反転させると、後景の円卓が前景右に来て、花瓶の二輪の花がそれぞれ一輪車で遊ぶ人となる。そして黄色の円卓が今や冥界の太陽に成り変わって光り輝き、手前の死の星たる月と呼応しあう。未完了、浮遊、反転、変容、死との呼応。これら近代が嫌って無視してきた生の在り方が、今や死の力の上で楽しげに演じられている。」