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映画「マリウポリ7日間の記録」雑感
昨日、東京渋谷のミニシアターに出かけて、リトアニア・フランス・ドイツ合作による映画「マリウポリ7日間の記録」を観てきました。嘗て私の実家には祖父母や両親がいて、第二次大戦中の横浜の状況を話してくれましたが、戦争を体験した人が今はいなくなって、世界情勢を扱うマスコミなどで戦争の実態を知るだけになってしまいました。戦争とは何か、戦争は私たちに何を齎すのか、戦争になると私の周囲にはどんな変化が生じるのか、ネット等によって世界が身近に感じる今だからこそ、その過酷な現実を見取りたいと私は思っています。本作によって人々の生活が死と隣り合わせになり、それでも不測の事態を何とかやり繰りして生きていく状況を見て、私には重い課題が与えられた気がしました。図録の文章を拾います。「『マリウポリ7日間の記録』では、避難所となったバプティスト教会の窓から見た街の風景が繰り返し映される。砲弾の音が響く中、街のどこかで煙がもくもくと立ち上がり、ときに炎が目立つこともある。~略~避難所にいる人々は、日々食事を作り、祈り、犬と戯れ、車や機械を整備する。爆撃のせいで中庭に散らばるガラスの破片や土砂をきれいに掃除する。日常生活は変わったようで、日々の仕事には変わらないものがある。絶え間なく爆撃の音が鳴っている。避難所の近くには遺体が放置されている。」(上田洋子著)本作はこんな風景をずっと追って撮影していました。監督のクヴェダラヴィチウスは、脱出する人々を助けるために歩いている途中で、親露派の見張りに見つかって殺害されました。彼がリトアニアのパスポートを有していたのが原因だったのではないかと考えられています。監督と一緒に助監督を務めていた妻のビロブロアによって本作は映画としてまとめられ、カンヌ国際映画祭で特別賞を受けました。映画はファンタジーを与えてくれる創作がある一方で、冷徹な事実を記録する媒体として歴史の証言を担う役割もあります。「マリウポリ7日間の記録」に登場する人々に涙はありません。激しい戦闘シーンもありません。思想は語らずとも観ている私たちが感じる何かは、途方もないパワーをもって私たちを凌駕するのです。