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東京恵比寿の「古寺巡礼」展
昨日、工房での作業を休んで東京国立近代美術館に行ってきましたが、その次に恵比寿に回り、東京都写真美術館で開催中の「古寺巡礼」展を見てきました。本展は30年以上前に亡くなった写真家土門拳による写真展で、土門拳がライフワークにした仏像や寺院を撮影したものです。私は学生時代に写真集によって「古寺巡礼」のシリーズを知り、私に仏像の美しさを開眼させてくれました。縄文土器は岡本太郎の論文によって、その美を認識したこととよく似ていて、仏像は土門拳の視点によって、仏像を宗教の対象ではなく美術的な眼で味わうことを教えていただいたのでした。とりわけ当時から私を捉えて離さなかった写真は、東大寺戒壇院の「多聞天立像」と「広目天立像」で、その迫力に圧倒されていました。室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像の半面相を撮影した写真はあまりにも有名で、横顔の完璧な輪郭がずっと脳裏に焼きついています。しかも自然な在り様が何の衒いもなく、こちらに語りかけてくるようです。どうしたらこんなアングルを見つけられたのでしょうか。写真集「土門拳の古寺巡礼」(株式会社クレヴィス刊行)にこんな文章がありました。「仏像の良さを捉えようとする時、じーっと見ていると、胸をついてくるあるものがある。それを両手で抱えて、そのものを丸ごと端的に表わすことを心掛けることが必要だ。…造形物であるからといって、形に捉われては駄目だ。仏像の精神をまっとうに追求することが必要なのである。」そうした姿勢で撮影された釈迦如来坐像は、慈愛に満ちた相貌をしているのだろうと思います。対象物に撮影者の魂が乗り移ったとでも考えたらよいのでしょうか。仏像は私にとっては宗教ではなく彫刻です。鎌倉仏師が作った慶派の仏像は西洋彫刻に近く、それ以前の飛鳥、白鳳、天平時代の仏像は中国から伝来したばかりの東洋の静謐性を有していると私は感じています。その私の感じ方が写真によっても浮き彫りにされていることに、私は心地よさを覚えてしまうのです。