Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「世紀末ウィーン夢紀行」について
「グスタフ・クリムトの世界」(海野弘 解説・監修 パイインターナショナル)を読んでいると、40年前の記憶が甦ってきます。私は1980年から85年までウィーンに住んでいました。とくに「世紀末ウィーン夢紀行」で描かれていたウィーン市街の中心部は、自分が通っていた国立美術アカデミーがあったため、その周辺をよく散歩していて、懐かしさが込み上げてきました。「カールスプラッツ駅の前のアカデミー通りを北へ向かうと広い大通りに出る。リングシュトラーセ(環状道路)だ。ウィーン中心部をぐるりとめぐっている。19世紀後半、この大通りが切り開かれ、そこに世紀末ウィーンがつくられた。はじめは、ルネサンスやバロックなどのスタイルで建設されたが、その最後にウィーン分離派のモダン・スタイル(ユーゲントシュティール)が登場した。カールスプラッツ駅はその象徴なのだ。ウィーンのリンク(輪)をめぐっていくことにしよう。アカデミー通りがリンクに出たあたりは、ケルントナー・リンクといわれる。ここからウィーンの中心にそびえるシュテファン大聖堂(寺院)に向かう、ウィーンの繁華街ケルントナー通りが出ているからだ。ケルントナー・リンクを左へ(時計まわり)進むとウィーン国立歌劇場(国立オペラ座)がある。1896年に建てられた新古典主義様式の建築である。ここからオーパン・リンクとなるが、ここでリンクを離れ、南に下るとフリードリヒ通りに入り、やがて黄金の月桂冠のドームが見えてくる。ここでウィーン分離派の殿堂であるゼツェシオン館(分離派会館)である。オットー・ワーグナーの弟子ヨーゼフ・マリア・オルブリヒの建築である。ウィーン分離派が独立した時、分離派のための美術館、いや聖堂としてつくられた。白いキューブ(立体)で構成され、月桂冠の葉をちりばめたドームと蛇の髪をしたメドゥーサらゴルゴン姉妹の装飾を持つゼツェシオン館は、『アジア的野蛮さのシルエット』と酷評された。しかしそれは、ウィーン分離派のアジアとの絆をいい当てていたかもしれない。」文章はまだまだ続きますが、アカデミー周辺の私の散歩道はこんなところでした。ただし、私がいた頃はゼツェシオン館は改装工事中で、帰国間近になって改装が終わりました。ウィーン国立歌劇場には立見席があって、冬の寒さに耐えられなかった私は、部屋の暖房費を節約するため、冬の間中オペラを立ち見で観に行っていました。私はちょっとしたオペラ通になっていて、あの頃は有名な歌手や指揮者も頭に入っていました。