Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「〈かげ〉についての素描」について
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「2〈かげ〉についての素描」について気に留めた箇所を取り上げます。「洞窟の比喩というおそらく西欧の想像力あるいは文学の史上でも第一級の位置をしめるイメージを描きえたプラトンが、また同時に、ジルベール・デュランの『象徴の想像力』のなかのことばを借りていえば想像力を不当におとしめる〈イコン破壊的〉な西欧形而上学の創始者となり、あるいはハイデッガー流にいえば、〈真理〉を現前存在者つまり〈イデア〉として規定する西欧的な〈ヒューマニズム〉の形而上学あるいは神学の創始者となったということは、考えてみれば、皮肉なことであった。」章の冒頭で洞窟の中において炎に揺れるかげから、地上の眩い陽光のもとに出た人々に着眼した箇所があって、前述の論考はそこが発端になっています。「いわゆる実在の世界から目を転じて、実在の反映あるいは〈かげ〉に没入することが、なぜ主体に現実との疎隔の感覚をもたらさず、かえって自己自身との親密さの意識をもたらすのか。いうまでもなく、それは、わたしたちの日常の実在あるいは現実の感覚が、差異性の諸体系によって重層的に構造化されたわたしたちの存在の場のほんの一部のみを抽象的に切りとり、それに対応していわゆるデカルト的な〈自我〉や〈意識〉といわれる構成体も、けっしてすべての〈真理〉認識の原点でも規準でもありえず、かえって人間の存在の場の総体への感覚をおし殺してしまうものにほかならないからである。」〈かげ〉についてこんな論考もありました。「無意識の世界とは意識の世界の〈かげ〉にすぎないのか。それとも、反対に、わたしたちが日頃これこそ現実だとおもいなす意識の世界こそが、かえって、その背後にひろがる広大な無意識の世界の〈かげ〉にすぎないのではないか。このような問いにたいして一義的な答えをあたええないことはいうまでもないだろう。たしかなことは、ただ、みずからがみずからにたいして残りなく現前し、〈かげ〉の部分を残さぬような意識、真理と現実性との超越的・絶対的な基準となり照合の中心となるような明証的な意識といったようなものが、人類の文化史上に一つのエピソードとしてあらわれた虚構にすぎないということだけだ。」今回はここまでにします。