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週末 道具の扱いについて
週末になると、創作活動に関する記事をNOTE(ブログ)にアップしようと思っています。昨日の朝日新聞「天声人語」に掲載された記事より引用いたします。「道具を粗末に使えば、道具は粗末に生まれる。栄久庵憲司」これに対して著者鷲田精一氏がコメントを書いています。「一つ間違えば指を刺す針は、かつて女性の生涯を支える道具であった。人は自身の生死が懸かるそれを労い、供養もした。道具は『人間が超えたところを示してこそ道具である』と工業デザイナーは言う。道具を箱に納めてその霊を休ませ、箱から取り出してまた奮い立たせる。道具への畏れを忘れればその働きも細り、指を刺す以上に危険だと。『幕の内弁当の美学』から。」道具に関して言えば、美術の専門家を目指すことになった私は、高校生の頃は受験用の濃い目の鉛筆や練りゴム、絵の具などを専用の箱に入れて持ち歩いていました。大学で彫刻を学ぶ頃は、彫刻に必要な道具も丁寧に扱っていました。これは海外の美術学校でも同じで、特に海外の彫刻科では道具は自分で作るように教授に言われて、木べらを自ら製作しました。それは40年経った今でも役に立っています。私は祖父が大工で、父が造園業の職人家庭に育ったために、道具に関しては誰に言われたわけではなく、作業前と作業後にはきちんと手入れをして箱に仕舞っています。道具とはそういうものだと思っていたところ、教職で同じ美術を教えていた教員仲間が道具を散らかしていて、絵を描くために無くした道具を探しているのを見るにつけ、私の常識は揺らぎました。絵画の表現に夢中になる挙句、そんなこともあるのかと思っていましたが、我を忘れて一気呵成に作り出す彼の世界観には、道具は所詮単なる道具であるという従属的な考えがあるのかもしれません。私の制作は熱情が足りないのかなぁと思いつつ、時間になれば道具を洗う坦々とした仕草に、自分の創造的な仕事には魂が籠っているのかどうか、妙なところで自問していました。それでも道具の扱いに関して、私は間違っていないと思っています。道具を粗末に扱ってはいけないと、祖父や父の背中は私にそう語っていました。