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「戦時下の日本へ」について
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第六章「戦時下の日本へ」の気になった箇所を取り上げます。本章では戦時下の中での作家中島敦との交流、医師川名敬子との結婚、太平洋協会からボルネオ行きを懇願されたことなどが綴られていました。「昭和17年(1942)3月17日夕方の5時、土方久功と中島敦が乗船したサイパン丸は横浜港に着いた。戦時中のため船の到着を事前に知らせることができなかったので、出迎えはなかった。」そこで土方家を取り巻く大きな事件がありました。「夕方、兄・久俊の家を訪れ、そこで土方与志(久敬)が明後日20日に入獄することを知らされた。」土方与志(久敬)は築地小劇場を主催した演劇人として知られた存在でした。「(土方与志(久敬)は)第一回ソビエト作家同盟で日本代表として、小林多喜二虐殺や日本の革命運動弾圧について報告した。~略~(朝日新聞の見出しには)『伯爵土方久敬(与志)氏、遂に栄爵を喪ふ 明治維新以来誉高き名家に峻厳な処断下さる』。爵位を剥奪されるのは日本の華族史上異例の出来事だった。」久功に縁談の話が持ち上がり、昭和17年9月に久功は結婚式を挙げました。「1週間後の13日、久功と川名敬子は、九段下の軍人会館で結婚式を挙げた。出席者37人の内輪だけのささやかな結婚式であった。」久功は中島敦の実家を訪ねたりして、2人の親交は続いていました。同時に久功はボルネオ行きを断れなくなっていました。「ボルネオ行きは確定したので、29日に、久顕、英子、柴山家へ別れの挨拶に行った。夜は後藤禎二から夕食に招かれた。このような混乱の中、11月30日の昼前、久々に中島敦を訪ねたところ、16日にひどい発作を起こして入院し、その後、11本も注射を打ち、ほとんど危なかったと聞かされた。入院先は近くの岡田医院(現・世田谷中央病院)だったので、すぐに行ってみた。パラオにいた時と同じように、何枚も布団を積み上げた所に凭れかかって、苦しそうな様子だったが、思ったよりは元気で、1時間ばかり話して、昼過ぎに帰ってきた。これが、中島敦を見た最後となった。」今回はここまでにします。